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「全力を出し尽くせば見えてくるものがある」

(「嗜好と文化」毎日新聞社/日本推理作家協会/JT編収録インタビュー再掲)

愛知県の高校から2浪しながら北海道大学に合格、早速柔道部に入って、「七帝戦」で闘いたいとの熱い思いで一心不乱に青春時代を送った増田俊也さん(52)。猛練習に明け暮れる、その汗と涙の青春記は「七帝柔道記」(角川書店、2013年)に詳しい。これだけ精魂打ち込めるのか、と読んでいて息苦しくなるほどだが、単なる格闘技の記録にとどまらない迫力がある。古い言葉を使えば、心・技・体。運動・スポーツの肉体鍛錬を通じて精神力も強化され、魅力的な人間性も培われる。そんなことまで感じさせる内容で、柔道の試合の描写にはハラハラドキドキ、思わず「もう少しだ、頑張れ!」と声を出して応援したくなるほどの臨場感がある。そんな武道家作家?に仕事部屋を訪ねてのインタビュー。

 

――北大には水産学部に進むコースで入学したそうですね。

 

 「学問としては動物生態学をやりたかったので選んだ学部です。僕は動物学と文学という2つの異なる分野に子供のころから惹かれていて、文学部と水産学部、あるいは農学部といった選択で迷っていたんです。結局、理系を選んだのは、当時、世界の最先端をいっていたヒグマ研究者の集まり『北大ヒグマ研究グループ(略称・クマ研)』の存在がありました。この団体は、当時はまだできて日が浅かったけれども、各学部を横断して学生や大学院生を含めた若手研究者がさまざまな研究の端緒をつかみはじめていました。柔道をやりながらそこに所属して将来は動物生態学者にという気持ちがあって、はじめは勉強する気もあったあんですが、クマ研も活動時間などがタイトで厳しい団体であり柔道と両立するなんてとてもできないと知り、その後はずっと柔道ばかりでした。だから結局、水産学部のある函館に行かずに終わりました。ハワイやアラスカなどに航海する水産学部付属の練習船『おしょろ丸』にも一度も乗らずでした。実物も見たことはありません。ただ、まったくその青春に後悔はないです。北大柔道部で仲間たちと過ごした4年間は忘れられません。当時は京都大学が10連覇の全盛時代で、ほかの大学はみなこの京大をいかに倒すか、それしか考えていなかった」

 

――柔道の「七帝戦」に勝ちたいという狂気のようなものが「七帝柔道記」という本から強烈に伝わってきます。七帝戦とは北大、東北大、東大、名大、京大、阪大、九大の旧帝国大学の柔道部が、毎年行う勝ち抜き戦のこと。寝技中心という、今の講道館流の柔道とは異なる内容なのがまた面白い。結局、増田さんは4年間、この柔道にすべてを打ち込んだということですね。

 

 「北大に行った第一の目的は柔道だったんです。浪人時代、自宅の机の前には『目標、北海道大学柔道部』とマジックで書いた貼り紙がありました。井上靖先生の自伝的小説に『北の海』(新潮文庫)という作品がありますが、僕たちがやっていた七帝柔道というのは、15人対15人の団体戦で、まさにあのなかに出てくる柔道をそのまま受け継いだ寝技中心の特殊なものです。これにすごく憧れた。当時の北大はまず全員が教養部に所属して、2年生の後期から学部に進学するシステムだったので水産学部に進学すると海のある函館に行かなくてはいけないんです。そうすると柔道の練習量が減ってしまうから、わざと留年を繰り返してずっと札幌にいた。入学3カ月目には、やっぱり文学部に入るべきだったかなとか転部も考えはじめて、そのうち教養部の授業があまりにつまらないので卒業する気もなくなってしまった。柔道をやるために入ったんだし、引退してからいろいろ考えようくらいの気持ちでした。1度だけ農学部教授の柔道部の先輩が『柔道部OBで水産学部教授の先輩が、後輩で俺のあとを継いで海鳥の研究者になりたいやつはいないかと言ってきた。おまえどうだ』と声をかけてくれて、柔道引退後に函館に行こうかなと悩んだ時期もありましたが、すでにそのころは柔道と読書中心の生活を送って、自分の志向が自然科学から離れつつあったかもしれない。動物関係の仕事は文筆でもできるではないかと思いはじめ、あるいは良質のノンフィクションを続けて読んだり、中南米文学にはまったり、芸大に興味を持ったり、さまざまありました。結局、4年目の7月に七帝戦が終わった段階で、退学届を出しました。僕は4年目までずっと教養部に居続けたので、4年目2年のまま退学したことになります。2浪して入学しているので中退時に24歳でした」

 

――七帝戦に、柔道に殉じた、という形になりましたね。

 

「すでに24歳でしたから、それほど単純でもなかったですけどね。『七帝柔道記』(角川書店)のなかに沢田征次という3浪で入学してきた大人びた同級生が出てきますが、彼は1年で部を辞め、さらに大学も辞めてしまった。その後、僕も彼のあとを追うように少し荒んだ生活になっていました。好きな女もいたし、芸術や建築とかにも興味が広がりはじめていました。もちろん子供のころも当時も、もっとも強く志向していたのは作家でした。でも作家になりたいなんて思っても雲をつかむようなことだから、そこで具体的に考えるなんてできなかった。まずは少し休んで考えたかった。とにかく、柔道は引退したんだからもうここにいてもしょうがないなと。僕が教養部の事務室に退学届を出しに行ったとき、たまたま窓口を開けたら出てきた職員が、坊主頭のおじさんでした。恵迪寮の学生たちを中心に、教養部生たちが一番嫌っていた厳しいおじさんです。教務課のトップの管理職だったんだと思う。学生の言い訳をいっさい認めず、どんどん留年させる。血も涙もないって評判でした。だから『嫌味を言われるかもしれないな』と思いながら退学届を提出すると、『なんでやめるんだ』と向こうのほうが驚いて。僕が『もともと北大には柔道をやりに来たので、もう十分にやりましたのでやめます』と言うと、『そうか、君こそが本来の北大生だ。昔はそういう北大生がいっぱいいたんだ』と感激してくれましてね」

 

――あははは。そのおじさん職員は当時の空気を懐かしがっていたのかもしれませんね。「何とかバカ」という人種が堂々と生きていられた古き良き時代を。

 

「数年前、ある知り合いの教授に聞いたんですが、おまえらが学生だった頃は何でこんなヤツが北大に来たんだ、というような学生がよくいたもんだと。東大に軽く入学できる学力を持っているヤツがいるかと思えば、逆にかなり学力が低くて北大に入れたのが不思議なくらいなヤツもいたと。今は学力レベルは全体では上がったけど、平均的なヤツばかりだと、ちょっと嘆くように昔を懐かしんでましたね。さっき話した教養部の人も、僕みたいな柔道ばかりやっていた学生がいたと知って、喜んでくれたのかもしれません。僕を事務室の中に入れて、職員に僕を紹介してくれて、今日の夜はみんなで送別会をやろうと、その晩、近くの居酒屋で開いてくれました。二次会か三次会で女性職員とカラオケでデュエットしたのがすごくうれしかったですね」

 

――その後、増田さんは地元の新聞社、北海タイムス社に入社していますね。

 

「大学を中退した後しばらくは土方仕事をしていましたが、向こうが入社試験は終わっているというのに、粘りに粘って無理やり1人で追加試験を受けさせてもらい、11月から働きだしました」

 

――その頃のご自分の青春記録を基にした小説「北海タイムス物語」(新潮社、2017年)は、新聞社が舞台ということもあり、私も新人記者のときを思い出して身につまされ、共感した内容でした。今は4月。新社会人が新たな人生をスタートさせる時期ですが、ぜひこの本を読んでもらいたいと思いました。一人の若者が学生という小さな枠から抜け出て徐々に成長して独立心を持った大人になっていく過程がドラマチックに描かれています。仕事とどう向き合うか、先輩たち大人とどう関わるか、何がきっかけで成長の一歩を踏み出すか、など多くのヒントが詰まっている本だと感じました。

 

「僕自身は、2年でタイムスを辞めたんですが、当時は先輩たちが次々と退社していく時でした」

 

――北海道の地元紙として伝統のある新聞でしたし、社員も誇りを持って働いていたけど、増田さんが入社した1990年ごろは社運が傾いていたというか、記者・社員の数が他紙より少なく給料もだいぶ安く休みも少ない、それではまともな生活ができないからと他紙に移る記者や他の仕事に転職する社員が後を絶たない。そんな社内事情が赤裸々に描かれていますね。

 

「退社する先輩記者たちは皆、例えば親が倒れたからとか、実家に戻らないといけなくなったからとか、うその理由を口にして辞めていくわけです。他の新聞社に転職するなんて、当時の仲間を裏切るような形で出ていくものだから、言いにくいんですよ。だから社内ではごたごたが続き、みんな怨恨(えんこん)を残して去っていく人ばかり。結局、僕も2年で辞めるわけですが、うそついて辞めるのはイヤだから『中日新聞の試験に受かりましたので移ります』と正直に言うのが筋だと思ってそうしました。うそを言って辞めると後々、タイムスの人たちと付き合えないと思った。だから本当のことを言いますと、そこまで言った」

 

――それが当時の増田青年なりの筋の通し方だと思っていたんでしょうね。

 

「でも、つらかったです。その後もずっと辛かった。それが本当にいいことだったのかどうか、悔恨を残したままです。世話になった年輩の先輩たちを傷つけたんじゃないかと。うそをつくのも優しさなんじゃないかと。タイムスを辞めたときの自分に失望した。それはいま振り返っていろいろわかるんです。当時は向き合えないほど辛いできごとだった。中日新聞社に移ってからは年収は何倍にもなり、1日の仕事量は何分の1かだし、休みは2倍3倍になった。でも、その生活を楽しいと思ったことは僕は1度もなかった。いつもタイムスの仲間たちのことを考えていた」

 

――小説ではモデルになった先輩たちが生々しく感情をぶつけ合う場面も多いですが、出版後に当時の先輩たちから何か反応はありましたか。

 

「お世話になった当時の上司から『今度同窓会があるから来ないか』と言われました。電話で話したんですが、当時のままの喋り方で、当時のままの優しさだった。すごく嬉しかった。いま思うと当時の上司はいまの僕の年齢よりずっと若かったんですよ。でも、当時は見上げるような高い目標でした。僕がタイムスにいたのは24歳から26歳のとき。たった2年間ですが、人員が少なかったことや、先輩たちの教育の熱心さもあって、他社でいえば30年分くらい鍛えられた。それくらい力がついたと思います。でも、あの当時の僕は、武張っていたというんでしょうか、寡黙だったし尖っていた。黙って行動で示せばいいんだくらいの気持ちだった。言葉も行動なのに、です。心のなかはまだ武道家であり現役のスポーツ選手だったんです。その流れそのままで生きていたんですね。柔らかさというか、まろやかさのようなものが欠けていた」

 

――それが自分の正義だと思い込むのが若者特有なのでしょう。

 

「中日新聞の入社試験の最終面接はずらりと前に20人くらいの社長や重役が並ぶんです。そのとき人事部長から『自分の長所を3分間でアピールしてください』と言われた。僕は一言『男が自分の長所を人前で言うようになったらおしまいです』と答えたんです。その時の自分としては正しいことを言ったつもりですが、しばらくその場がシーンとしてしまいました。今から思うと、『何言ってるんだ、この若造は!』というのが面接官全員の本音だったでしょう」

 

――う~ん、20代の青年が言っても、どうでしょうか……。

 

「結局、後々聞いたらその言葉が問題になって、僕は不合格になるところだったそうですが、1人だけ『面白いやつだから伸びるかもしれない』と言ってくれた重役がいて採用になりました。当時は余計なことを言わないのが男らしいと思っていた。山本五十六ではないですが『苦しいこともあるだろう。言いたいこともあるだろう。これらをじっとこらえてゆくのが男の修行である……』ですね。でも、山本五十六を真似したわけではないです。若いころ団体スポーツに打ち込むというのは、そういった精神を涵養するものなのでしょうね。それがいいことなのか悪いことなのか……」

 

――まあ、若者というものは大体そんなものでしょう。特にスポーツマンだったら硬派の信条を持つ人が多いんじゃないですか。

 

「若い時は誰しも、自分なりのルールを持っていて、これだけは譲れないというものがある。それで何事も決めつけてわかったような気になっちゃう。実際はわかっていないのに。学生から会社に入ったら、上司や先輩からいろいろ言われるけど、自分のルールでしか理解しようとしないから反発したりする。人の話をちゃかしたり、斜に構えて、裏を読んだり。先輩の言葉には必ず意味があるのに、それを真摯(しんし)に受け取ろうとしない……」

 

――「北海タイムス物語」の主人公・野々村青年がまさしくそんな感じで描かれていますね。大学を出て、新聞記者としてバリバリ記事を書こうと思っていたのに、入社後の配属先が取材部門ではない内勤職場の整理部。そこは他人が書いた記事の取捨選択をし、紙面のレイアウトを決め、見出しを付ける部署。新聞社としては中核部署ですが、取材で駆け回る新聞記者を夢見ていた新人記者からするとやる気にならない仕事でしかない。教育係の先輩の指導もことごとく受け流して、仕事もまともにやらない。ここは自分のいるべきところじゃない、と心の中で叫び声をあげている。これは今の若者に共通するところでしょうね。

 

「僕も新聞社でサラリーマン生活を27、28年も経験したので、この年になると、先輩や上司の話はよく聞いた方がいいよと言いたい。言い方はいろいろあっても、必ず意味のあるアドバイスがある、それを真摯に受け止めるべきですよ。こちらが素直な態度を見せれば、あちらも素直に話してくれるものです」

 

――「北海タイムス物語」で、ぜひ若い人たちに読んでもらいたいのは、後半部分、主人公が今まで嫌っていた整理部の仕事を必死になって先輩から学び取ろうとするくだりです。イヤだイヤだと思っていた仕事が一転魅力的な仕事に見えてくる。そこには上司や先輩や周りの人たちの力が働いている。これは新聞社が舞台の話ですが、どこの職場、どの業種でもあり得る、いや実際にある“マジック”だと思いますね。

 

 「経験からいうと、何事も自分が全力を出し尽くさないと、わからないものですよ。だから若い人に言いたいのは、自分が選んだ仕事や会社には思い切りのめり込んだ方がいいんじゃないか、ということです。それに本気でやる気を出してやり始めると、周りの自分を見る目がガラリと変わりますよ。入社してからもグスグスやっている若い人に、先輩は自分の持っている技術やノウハウを教えたいと思いますか? でも一生懸命に本気で頑張っている若者には自分のすべてを伝えようとしてくれるし、そこには強い絆が生まれてくる。若者の方がいいかげんだとその先輩の真意が見えてこない。数字で表示されるスポーツと違って、人の心は見えにくいから。でも、本人が全力を尽くしてやり出すと、それが見えてくる。ガラッと風景も変わって見えてくるんですよ」

 

――そういう考えがはっきりしてきたのは、いつごろからですか。

 

「僕は中日新聞に入って少したった頃、29歳のときに兵庫県警の採用試験を受けたんです。僕の後輩で、七帝戦で北大が12年ぶりに優勝したときにリーダーシップを取った男が非常にいい男でしたが、その後、燃え尽きて自殺してしまったんです。それがショックで、何か自分にできることはなかっただろうかとぼうぜんとした日々を過ごしました。その時の僕の答えが、あいつにもう一度納得できる柔道を見せてやりたい、ということでした。柔道のできる環境を求めて、では警察官になろうと。でも御存知かと思いますが、各都道府県の警察はそれぞれそこの自治体の地方公務員なんです。だから採用試験の年齢制限などもマチマチでした。で、受験資格がぎりぎりあったのが兵庫県警だったんです。受験の日に30歳になっていなければという条件でした。僕は11月が誕生日で30歳だったので、兵庫県警だけは受ける資格があったんです」

 

――後輩への思い、柔道のために県警の採用試験を受けようと思われたのですね。

 

 「実は当時は僕の父はまだ愛知県警の現役警察官でした。父は警察官という仕事に誇りを持っていて、小さい頃から僕に警察官になれとずっと言っていました。高校卒業の時も言われ、大学中退の時も言われました」

 

――親の願いをなぜ受け入れなかったんですか。

 

「当時は若かったんですね。親への反発もあったし。父は九州出身で子ども心に怖かった。例えば家に親戚が集まってすしがテーブルに出ているとき、子どもですから一番おいしいものだけを食べ続けたり、部屋を走り回ったりすると、後で必ず座敷に正座させられた。『なぜ怒られているのかよく考えろ』と禅問答のようなことをさせられる。3時間正座させられたこともありました。中学出るくらいまでずっとそんな感じでしたよ。高校入るとさすがに正座はなかったですが、まともに口をきけないくらい怖かった。北大を目指したのも、もちろん柔道をやりたいという気持ちはありましたけど、家を出てできるだけ遠くに行きたいという気もあったんでしょうね。生意気盛りでしたし。今なら親の深い思いがよくわかるけど、若い人間って肌はツヤツヤだし、心もひだやしわがなくてツルツルのプラスチックみたいで、見た目は綺麗で美しいんだけけど、細かいことに引っかからないでしょう」

 

――では、29歳のときに警察官試験を受けたことをお父様は喜んだでしょう。

 

「いえ、言っていませんよ。隠れて受験しましたから」

 

――結局、採用試験は?

 

「僕は大学中退でしょう。だから高卒資格の受験だった。29歳の新聞記者が18歳の高校生と一緒にペーパーテスト受けたら、それは合格してしまいますよね。それで体力テストなんかもまだ若いから簡単だった。そこから何度か面接があった。最終の面接で、面接官たちが『もし合格したら、18歳の若者と一緒に1年間警察学校で学ばないといけない。10歳以上離れた者とやっていけるか』とか『年収は18歳の子たちと同じだから今の半分以下になる。それでもいいのか』とか諭された。でも僕は死んだ後輩のことを話し、自分の真意を一生懸命話した。どうしても柔道をやりたいと。面接官のなかには泣いている人もいた。でも数週間後、届いたのは不採用通知でした。落ちたのは当時すごくショックでした。でも今考えると、こちらのことを考えて落としてくれたんじゃないかと思います」

 

――その時は両親と同居していて、そのことはバレなかったんですか。

 

 「ええ。面接のときに面接官たちに『僕の父は愛知県警の現役警官なので本人にこの受験がばれないようにしてください』としつこくお願いしたんです。もし知ったら本人が『だったらどうして高卒や大学中退のとき受けなかったのか』と傷つくから、と。でも、僕の書いた『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮社、2011年)が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した後に、週刊文春のインタビューコラムで兵庫県警受験のことを話したんです。父はこれを読んで初めて僕の警察受験を知った。びっくりして1週間ほどふさぎ込んでいたと聞きました。嬉しかったのか、悔しかったのか、あるいは悲しかったのか。でも僕に対しては何も言いません。いまだに僕のほうからもひと言も言っていません」

 

――いやあ、父と息子の関係は難しいなあ。先月インタビューした北上次郎さんも寡黙な父に、「果たして俺は愛されていたんだろうか」という疑問を抱えながら、父親の青春時代の足跡を訪ね歩いて一冊の本にまとめた、というお話を伺ったばかりです。親の心、特に息子にとって父親の胸の内はなかなかうかがい知れない。腹を割って話すというのが、なぜかはばかられるような関係が多い。世代による違いがあるかもしれませんが。

 

 「でも、父親への思いが一転するようなことが兵庫県警受験の10年後くらいにありました。僕が40歳くらいのときですね。運転免許証の更新に行った際、駐車違反をしていたので講習を受けなくてはいけなかった。交通安全協会の講師って、元警察官なんですよ。そのときの講師が講習中にときどき柔道の話を挟んでいて愛知県警で特練の柔道選手だったことがわかった。それで講習が終わって新しい免許証を貰ったあと、僕はその人が廊下を歩いていくのを走っていって『僕も高校と大学で柔道をやってたんです』って頭を下げた。そうした話の中で父が愛知県警の警察官だったといろいろ話したら、その人が『え、君はマッサンの息子か』と」

 

――その方はオヤジさんの知り合いだったんですね。奇遇ですね。

 

 「僕もびっくりしました。ところがその人は『君のお父さんは本当に優しくて、職場のみんなに慕われていた。あんなに素晴らしい人はいないよ』と続けて言うので、さらにびっくり。え、僕が見ていた父と全然違う、あれはいったい何だったんだろうと。僕はただ怖いだけの人として捉えていた。でも、実は優しい人なんだと」

 

――息子が間近で見る父親像と、職場や他人に映る人間像とは、大なり小なり異なるものでしょうが……。

 

 「さらに言われた言葉が衝撃でした。『おそらくマッサンにとって君は宝物だと思うよ』と眼を潤ませながら言ったんです。この一言で一瞬にして目の前の風景が変わって見えました。あんなに怖かった存在の父が、まったく違うものに見えはじめた。若い頃の父とのやりとりをいろいろ思いだした。すると、あのときのあの言葉は僕が考えたようなものではなかったのではないか、じつはもっと深い意味があったんではないかと、若い頃に怒られた言葉をいくつも思いだした。そうすると、社会も自分の人生もまったく違ったものに見えてきた。そのときの交通安全協会の講師のおかげで、人生のとらえ方がガラッと変わりました。これはあの講師の人間的な大きさもあったと思う。たまたま走り寄ってきた初対面の青年に、その人は素直に父のことを語ってくれた。その強い言葉が親子の糸みたいなものをつなげてくれたなあと。でもね、あのときあの人が『おそらくマッサンにとって君は宝物だと思うよ』と言った言葉、これは僕が走り寄って柔道の話をしたから向こうもなんて可愛いやつなんだと思ったからなんじゃないかな。僕はそのときもう40歳くらいなのに、小学生のように走り寄ってきた。だから『おそらくマッサンにとって君は宝物だと思うよ』という言葉が出た。いま思うと、あのころが僕が柔らかく丸くなっていく転換点のころの年齢だったんだと思います」

 

――では、その後、父親に自分の気持ちを伝えたんですか。

 

「いや、話はしませんよ。父もまだ健在ですが、何も言ってきません。だから今回のこのインタビュー記事を読んで初めて知ると思いますよ。そういえば『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮社)のゲラ校正作業はオヤジが若いころ使っていた座卓で徹夜続きでやったんです。夜中、睡魔が襲ってくるときにふと子供のころを思いだしたんです。そういえば、オヤジも昔、警察の昇進試験のため、この座卓で深夜まで毎晩勉強していたなあと。不思議ですが、そう思うと、体に力がわいてきて頑張ることができた。帝国ホテルで開催された大宅賞の授賞式のとき、最後に司会者が『御家族や御友人の方で一緒に記念写真を撮りたい方は壇上に上がってください』とアナウンスしたんです。みんな恥ずかしがって誰も上がってこない。そのなかで白髪のオヤジが1人でよじ登ってきてきた。そして、自分よりずいぶん背が高くなった僕の肩を背伸びして上から嬉しそうに抱いたんですね。それで僕はオヤジをたてるために窮屈だけど下から腕をまわして写真に収まった。九州男児ですし昔の男ですから受賞しても一度も『おめでとう』の一言すら僕には言わなかった。でも、ゲラ作業をしている僕を遠くから見ていて、結果を出した息子が誇らしかったんでしょう。おそらくこのときやっと、オヤジのなかで『こいつは警察官じゃなくてこの世界に進んでよかったんだ』と納得できたんじゃないかな」

 

――ところで、柔道に入れ込んだ増田さんが50歳で新聞社を辞めて、今は作家専業として活躍中です。作家になるという気持ちはいつごろから抱いていたんですか。

 

 「小さい頃から本を読むのも文章を書くのも好きでした。ほかのことはともかく、文学に対してだけは早熟でした。いつかは作家になりたいと思いながら生きてきました。新聞社に入ったのも、その先に作家を夢見ていたからです」

 

――新聞社では取材記者よりも整理部、内勤の編集仕事が長かったと聞きましたが、それは作家活動にどう影響しましたか。

 

 「編集能力というのは、つまり全体像をつかむ構成力なんですね。全体が見えていないと長い文章は書けない。僕が取材記者、つまりライター中心の記者生活だったら、今のように書く力はつかなかったと思います。エディターだからこそ、小説でもノンフィクションでも、どれだけ長い物語であっても紡ぎ続ける肺活量のようなものを身につけることができました。大宅賞と新潮社ドキュメント賞をいただいた『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』は木村先生が亡くなった1993年から書き始めましたが、18年間もぶれずに書いていけたのは、この編集能力があったからだと思います。それからポイントを抑える力を身につけることができたのも編集記者としてのキャリアがあったからです。そもそも『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』なんて題名は取材記者では考えることさえできないと思いますよ。これも見出しを考えていた編集脳の賜です。あとは、新聞社の整理部っていうのは、本社にいて、制作局や印刷局、広告局、販売局、いろいろな部署の人たちと知り合える。そうしたなかで新聞という仕事への思いを様々な角度から勉強することができた。そういった視点は、作家という仕事をするのに非常に大切なものです」

 

――最後に、これから書きたい世界は何ですか。

 

 「前の戦争の悲惨さを描きたい。といって、でかい話ではなくて、ミクロの視点でとらえた作品。例えば、野坂昭如さんの『火垂るの墓』や、手塚治虫さんの『アドルフに告ぐ』といったイメージのものです。もう一つはブラジルなどへの開拓移民の話を、子どもの目で書きたい。大人からは大変な苦労話、困窮話であっても、子どもの目には新しく行った場所がワンダーランドに見えるんですね。僕の年齢になると、近しい人たちが突然亡くなることが多くなっています。僕も今日が最後かもしれないと思いながら精一杯生きていきたい。だからいつも最後の作品だと思いながら真剣に書いています。あらゆる人の人生の応援歌になるような作品を紡いでいきたい」

 

 

増田俊也(ますだ・としなり)

1965年愛知県生まれ。北海道大学中退後、北海タイムス社に入社し記者に。2年後に中日新聞社に移り、在職中の2006年「シャトゥーン ヒグマの森」で第5回「このミステリーがすごい!」大賞優秀賞を受賞しデビュー。12年「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」で第43回大宅壮一ノンフィクション賞と第11回新潮ドキュメント賞をダブル受賞。13年に「七帝柔道記」で山田風太郎賞最終候補。16年春に中日新聞社を早期退職し、本格的な作家生活へ。現在、「続・木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(小説新潮)を連載中。近著には「北海タイムス物語」などがある。

 

 

「取材が終わって 増田俊也さん」

(ジャーナリスト 網谷隆司郎)

 

 柔道ひと筋の大学生活を送った猛者のイメージ。さらにデビュー作「シャトゥーン ヒグマの森」(宝島社、2007年)では、凶暴な陸上最強の動物が暴れ回る迫真の描写。著者近影で浮かぶひげ面の野性的な面影……。

文弱派を自任する私は、インタビュー前にこんな勝手な思い込みをしながら、少々腰が引けた感じで増田俊也さんの仕事部屋にそろりと入った。

イメージは当たっていた半面、大きく外れもした。目の前の増田さんは確かに無精ひげふうな面立ちであり、髪の毛はぼうぼう。いかにも寝覚め直後のようだなと思ったら、「さっき起きたばかりです」と頭をかいた。聞けば、執筆時間は夕方4時ごろから明け方の9時、10時ごろまで。それから夕方までが睡眠時間。完全な昼夜逆転の生活のようだ。私が伺ったのは午後4時だから、起床したばかりか。起こしてどうもすみません。

愛知県の高校から2浪して北海道大学に入学した、柔道部に入って「七帝戦」に出た、という略歴を見て、急に親しみを感じた。私も同じ大学で4年間学んだ身の上。「七帝柔道記」や「北海タイムス物語」など増田さんの青春記風な小説の中に出てくる札幌の地名や、大学構内のあれこれの施設や周辺の居酒屋・盛り場が懐かしく思い出され、一種のセンチメンタル・ジャーニーの気分に浸った。

ただ増田さんと私とは16年もの時間の隔たりがある。大学紛争で授業もまともになかった1970年前後と、柔道ひと筋に打ち込めた80年代後半とは、同じ大学でも空気がだいぶ異なっているように感じた。

何年か前、旭山動物園の取材に行った際、館長室に小菅正夫館長を訪ねてインタビューした。2浪して北大獣医学部に入ったと聞き、1浪で入学した私と同期入学ですねと答えた。      増田さんも大先輩を知ってるそうだ。

もう一つ、増田さんとの接点は北海タイムスだ。4年目の夏に最後の七帝戦を戦ったのを潮に大学を中退した後、就職した新聞社だが、私はこの社が72年に主催した「タイムス10マイルレース」に仲間と一緒に参加、何とか完走して確か70位でゴールイン、翌日のタイムス紙面に自分の名前が印字されたのを、幾分誇らしい気分で思い出す。

さて、同窓という気持ちはさておいて、「人生の応援歌を書いている」という増田作品のうち、今の若い世代にぜひ読んでもらいたいのが「北海タイムス物語」だ。作家が社会人として初めて会社勤めした時の経験を下敷きにした作品だが、「私はこんな仕事をするためにこの会社に入ったんじゃない!」という憤懣(ふんまん)をマグマのようにためている方に、特にお薦めする。

もちろん、今のご時世、ブラック企業、過労死、サービス残業、名のみ管理職……といった人の善意を悪用するヤカラが数多くいる環境である。それはそれで法規制を強めていくべきだ。

ただ、多くの職場で、特に若い世代が自分のイメージと合わないからと、目の前の仕事に熱心に取り組まないで、次の職場に流れていく、あるいは転職するシーンが見られる。「新卒の3割が3年で辞めていく」という時代だそうだ。転職そのものは良いとも悪いとも単純に言えないが、ただ自分の持つ潜在的な才能とパワーと持ち味を十分に発揮しないまま、次々と流れていくのは、私のような団塊の世代の人間にはもったいないように見えてしかたない。

自分の周りに問題があって、自分はその被害者だ、と思い込んでいるうちは、仕事と良いめぐり合いはないのではないか。

 「会社や組織にいればいろんな人がいて、いろいろ問題はある。でも、先輩や上司に素直な気持ちで対すれば、あちらも素直に話してくれる。先輩は自分が持っているすべてを若者に教えたいと思っているものです」

こういう増田さんの体験から絞り出された言葉が、今回のポリシーとなっている。

「何でも一生懸命、全力でやり尽くせば、今まで見えなかったものが見えてくる」

父親とのいわく言い難い関係に一瞬の光明が差した。自分の知らない父親像と出会った瞬間に、今までの狭い視野がパアーッと開けた。若い自分がいかに自分のことにしかこだわっていなかったか。50歳を過ぎて、人生の凹凸、裏表が見えてきた。そんな思いだろうか。

一見冬眠から目覚めたヒグマのような増田さんが、青春時代への悔恨、後悔、ざんげを低い声で語る時、含羞の表情が浮かぶのを何回も認めた。父親の別の顔を初めて知ったといって、ポツリと言葉が落ちた。「人間にとって一番大切なのは優しさです。それ以上に大切なものはないですよ」というセリフを吐いたときのいい顔が、今も私の目に焼き付いている。