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​増田俊也×原田久仁信

​週刊大衆で「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」の漫画版「KIMURA」が始まったとき、漫画家の原田久仁信先生との対談をゴング格闘技誌が掲載してくださいました。学生時代からの憧れの先生ですので緊張しましたが充実した対談になりました。

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大河漫画連載「KIMURA」を語る。

「中井さんのことを知らなかったのが恥ずかしかった」(原田)

——「『男の星座』たちに捧げる」と表紙に記された『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのかの』(新潮社)を原作とした漫画『KIMURA』が、現在『週刊大衆』誌上で連載され大反響を呼んでいます。その『KIMURA』には、原作には無かったシーンが盛り込まれるなど、現在のMMAに繋がる壮大な物語が描かれています。本日は、その原作者である増田俊也さんと、漫画家の原田久仁信先生に、『KIMURA』制作の想いを語っていただきたいと思います。

増田俊也 原田先生、ありがとうございます。僕はほんとうに御礼を言いたくて……。中井(祐樹・北大柔道部の3期下後輩)のことを『KIMURA』にいろいろ描いてくださって。

原田久仁信 描くべきだと思ったんです。僕は何も知らなかったから……。

増田俊也 『週刊大衆』の編集部さんと「これまで我々はいったい何を見ていたんだ。中井さんに申し訳ない。まったく世界観が変わってしまった」と話してくださったそうですね。僕が訴えたかったこと……、この『VTJ前夜の中井祐樹』(『ゴング格闘技』2009年6月号掲載)で書いたことなんですけど、当時、世間に届けたかったけど届かなかった、1995年のバーリトゥードジャパンでの中井の戦い──、それを漫画にしてくださって本当に嬉しいです。しかも、中井と大学柔道部同期の吉田(寛裕・北大主将)と甲斐(泰輔・九大主将)君のことまで描いてくれて……。

——そもそも、原田先生が最初に『木村〜』を読んだときの印象はどのようなものでしたか。

原田久仁信 増田さんの執念のような取材の気持ちを感じたんです。話そのものは大体知っていたけど、あそこまで……こう、なんて言うんだろうね。すっぽんのように食らいついていく、その執念に圧倒されました。しかも、時差があるじゃないですか。過去のことも丹念に調べ上げている。

——たしかに戦前・戦後、柔術と柔道、日本とブラジルなど時空を超えて展開しますね。原田先生は九州(福岡)のご出身ですね。木村政彦や熊本弁にも近しかったのでしょうか。

原田久仁信 爺さんが根っからの熊本育ちだったんで、自分の息子たちは鎮西(中学・高校)に出して拓大に行かせてっていうパターンでしたから、木村政彦と同じですね。偶然なんですけど。


「僕は原田先生の漫画を読んで育った世代なんです」(増田)

 

増田俊也 僕も、原田先生が描かれた『プロレススーパースター列伝』、『男の星座』っていうのは、自分たちの青春と共にありました。それに原作を書かれた梶原一騎先生の作品すべてが、自分の子供時代からの青春そのものです。僕は今のプロ野球があるのは『巨人の星』があったからこその部分も非常に大きいと思うんです。かつて子供時代もそうでしたし、それを読んで育った世代が今もファン層を支えている。ボクシングだって『あしたのジョー』があったからこそ一般層に認知された。業界を支えてきたのは梶原先生のファンじゃないですか。それが一度、ああいう形で(傷害事件で逮捕以降、あらゆるマスコミがさまざまなスキャンダルを連日報じ始め、連載の打ち切り、単行本が絶版処分などになった)名声も地に落ちて……悲しかったですね。そこに僕は、木村先生と同じ悲しみを感じるんです。あの時、ショックだったし、マスコミが一斉に叩いたことが、すごく悲しかったんです。僕はいつも思うんですよ。梶原先生の時だけじゃなく、マスコミは何かあった時に一斉に誰かを叩くけど、「本当にその人ひとりだけが悪いのだろうか」って。「じゃあ、叩く人はみんなそんなに素晴らしい人物なんですか」って。一人くらい守る側に立つ人がいなきゃだめじゃないのかって。それが僕の物書きとしての原点にもなっている。僕もそうだけど、みんな大した人間ではありません。人間なんてもともとたいしたことはないんです。どんな聖人でも人生で二度や三度の大失態をしたり、人に酷いことをしたり、いい加減なことをやったり、そういう業を抱えて生きている。全員がです。でも、そういった悔恨と業を抱えながら、みんな日々を懸命に生きている。人間なんてみんなが悪人であり、みんなが善人です。人間てそういうものです。親鸞ではありませんが、天から見ればみんな同じようなものです。木村先生だってそうだし、力道山だってそう。だから互いに許し合うっていうことが大切になってくる。大宅賞のときのインタビューで僕が言った恩赦の赦、「赦し」という「許し」よりさらに上のところまで昇らないと……。読者に対してその手助けをするのが僕たち作家の役目のひとつだと思って……。

原田久仁信 ……。

増田俊也 今回の扉絵を見たとき、僕は泣きました。表紙の扉絵だけで。だって、原田先生は木村先生とヒクソンと中井祐樹を同じ扉に、同じ大きさで描いてくれたんですよ……。世界のキムラと世界のヒクソンと並べて、3人をまったく同じように扱ってくださった……。これを見て、ああ、本当に中井祐樹というのは、格闘技史上に残ることをやってのけた男なんだということが、世間に届いたんだと、そう思いました。いや、世間に届く前に、まずは原田先生と週刊大衆の編集部の心に届けることができたと、そう思いました……。

原田久仁信 ええ……。


「中井は本当に勝つつもりだったと思うと泣けてきて」(増田)

 

増田俊也 原田先生が描く画のなかで僕が好きなシーンがあるんです。視線を上に上げている男の顔が特別なんです。『男の星座』の中にも、扉絵で梶原先生が空を見ているシーンがありました。中井のこの扉絵も、ゴルドーに顔を殴られて眼も腫れあがってひどい顔なんですが、視線がほんの10度か15度、上を見てるんです。その視線のほんの少し上を見る角度がね、僕はそれを見て、中井は本当にあの会場で一人だけ勝つつもりでいたんだと、そう思いだして泣けてきて泣けてきて……。

原田久仁信 いやあ、そこまで僕の画の意図を繊細に見ていてくれたとは……。僕自身も、まずは増田さんを泣かせないと読者に届かないだろうというのがありますからね。だから命を削りながら描いています。僕は“反対側”ばっかり描いていたというのがありましたから……。僕自身が力道山世代(昭和26年生まれ)で、木村政彦の話は聞いていても、「いや力道山の方が強いでしょ」という感じで育ってきていますからね。うちの爺さんたちも柔道をやっていて、その雰囲気というか“圧”で、僕も中学の時に柔道部に入ったんですよ。でも、やっぱりダサい。何しろ女にモテないですよ(笑)。その点、力道山は見得を切ったり、見せ方がやっぱ上手ですよね。それにヒーローである力道山の引き立て役として負けっぷりのいいやつがいる。そういう屍も踏み越えて眩いリングに上がっていくっていうのが、なんかすごい好きでしたね。もう、光ばっか見ていたって感じですね。

「僕はプロレス側からあの試合を見ていた」(原田)——その陰で、真剣勝負を世間に認めさせようとした男たちがいた。今回、『KIMURA』を拝見して、原作本に出てこないバーリトゥード・ジャパンの話が入ってきたことに驚きました。それが『週刊大衆』というプロレス人気の高い一般誌に掲載されたというのも……。

増田俊也 初めはね、週刊大衆の編集部が「中井祐樹さん? そんなマイナーな格闘家の話は読者が読まないですよ」

と言っていたんです。僕は「それは違う!」と。それで『VTJ前夜の中井祐樹』や当時の格闘技マスコミが書いた文章をたくさん送って、さらに当時の動画を何本も送って「こんな凄いことをやった男なんですよ!」って言ったんです。そういうのを読み、動画を観て、編集部も原田先生も驚かれて……。中井祐樹という人物のやったことをよく知らなかったんですね。「いったい自分たちは今まで何を見て生きてきたんだ……中井さんに申し訳ない……」とびっくりして、そこからはむしろ原田先生が「中井さんのことをもっともっと知りたい。もっともっと描きたい」とぐいぐい描いてくださって……。それで今、連載で中井に回数を何度も何度もこうして割いてくださっている。この試合のことはまったくご存知なかったんでしょうか。

原田久仁信 いや、知ってはいました。ただ、仕事してたから会場にいなかったし、当時はまったく中井さんのことが眼中になかった。一般の観客と変わらないですね。僕はヒクソンを倒せる大きなやつが決勝に出て、やっつけて欲しいと思っていた方だから。1、2回見ても、なんでグレイシーに負けるのか不思議でしょうがない。子供の喧嘩みたいに馬乗りになるじゃないですか。なんであれに勝てないんだ? って。関心が無かったんですね。格闘技の専門誌も読んでなくて、プロレス側の書いたものばかり読んでいた。総合格闘技自体あんまり興味が無かったんですよ。どっちかと言うと、マジでやったらプロレスの方が強いんじゃないかと思っていましたからね。力でねじ伏せちゃった方が早いと。でも、これ(『VTJ前夜の中井祐樹』やVTJ95の動画)で……、目が覚めましたね、僕は。恥ずかしかったですよ、知らなかったことに。こんな偉大なことをやった中井さんに申し訳ないと……。桜庭(和志)の方はチヤホヤされたけど、これ、中井さんの方が先だろ、っていうのをすごく思いましたね。

増田俊也 でも、原田先生や週刊大衆の編集部がそう感じてくださったのは、僕の書いた文章の力でも動画を撮った人の力でもなくて、中井自身の力なんですね。中井がやったことそのもの、中井祐樹という存在がそうさせた。中井祐樹という人物が発散している、人間としての、男としてのエネルギーに衝き動かされたんだと思います。

——増田さんも以前、あの試合を見ていて「恥ずかしかった」と仰いましたね。

増田俊也 会場で見ていて僕は……負けると思って。中井が負けるのを見に行っていたんです。ゴルドーは身長で28cm、体重で29kgも差があって反則の常習犯だったし、ほかも重量級ばかりだったでしょう。2回戦のクレイグ・ピットマンも115kgです。

——ほんとうに勝つとは……


「あれだけの精神性を持つ格闘家は空前絶後」(増田)

 

増田俊也 思わなかった。それがゴルドーにはロープを掴まれながら30分近くも戦って勝って、準決勝も腕十字で一本取って、ヒクソンのところまで上がってきて、しかもヒクソンにまで勝とうとしているじゃないですか。そこまで高い意識と志を持った人間が、自分よりも若い後輩だったわけですよ。中井は本当に命をかけて勝利を獲りにいっていた。だから……僕は自分が恥ずかしかったですね。自分の志の低さが。ゴルドーに勝つことも中井本人だけは信じていた。あんな体格差があって、当時まだアルティメット大会のイメージしかなくて、怖いに決まってるでしょう。誰もできないですよ。しかも眼をえぐられても戦い続けた、今でも信じられない。僕は竜澤君(増田の北大柔道部同期で『七帝柔道記』の準主役として登場する)ともよく話すんですが、全盛期の山下泰裕先生でも千代の富士でも「痛い」と言って試合を中断させるでしょう。以前、ゴン格で藁谷浩一さんも書いておられましたが、あれほどの精神性を持つ格闘家は空前絶後でしょう。

原田久仁信 眼のことも自分から言わなかったことにすごい美学を感じますね。

増田俊也 総合格闘技の未来を考えて、1年間、失明したことも隠していたんですね。

原田久仁信 普通は大騒ぎしますよ。だって、油を塗られただけであれだけ大騒ぎするんですから(苦笑)。中井さんもアピールすれば絶対に有利になるのに、そのまま戦い続けることを選択して最後は一本を取った。

増田俊也 彼はあの時、まだ24歳ですよ。そんな若い……僕には今のこの47歳という年齢でも無理ですけど、そこまで人間って志高く、強くいれるんだろうかって……。全員重量級で、開会式の時にリング上に並んだ時にこんな1人だけちっちゃいのは怖いですよ。僕は総合格闘技はやったことない、柔道しかやったことないけど、それでもわかりますよ。何か他の格闘技をやったことがある人ならわかるはず。そこで玉砕じゃなく、本当に勝ちに行こうとしているなんて僕は夢にも思わなかった。原田先生は今回、七帝柔道で中井の同期だった吉田寛裕(北大主将)と甲斐泰輔(九大主将)君のことまで描いてくださいましたよね……僕がそこまで描かなくていいと編集部に言っても原田先生が「いや、描くんだ。描かなきゃいけないんだ」と言って描いてくださったそうで……本当にありがとうございます……。


「中井さんのバックボーンを描きたかった」(原田)

 

原田久仁信 なんて言うんですかね……、バックボーン……。中井さん自身を僕は知らないんで想像するしかないんですけど、本当に身近に死というものを感じていたんだろうなっていうのはすごい思います。僕も同級生が死んだ時は、そんな気持ちになりました。中井さんは……自分が生きていて、同じ歳のやつが死んでいる……同じ柔道をやっていた仲間で、自分だけが残っていて……。特攻隊とかああいうときの生き残り的な感覚になっているんじゃないかなって。昔の日本人みたいな感じですよね。ヒクソンはよく中井を「サムライだ」って言ってくれたなって思いますね。

——高専柔道の柔道家人や牛島辰熊、木村政彦、岩釣兼生、中井祐樹や青木真也、エリオやヒクソン、現代MMAにも繋がってくる。これは増田さんと原田先生による現代の『男の星座』だと感じます。

原田久仁信 そういうふうになれば最高ですけどね。

増田俊也 僕はもうすぐ50歳ですけど、いつ死ぬか分からない。でも、原田先生が描いてくださったこのシーンがあれば後世に中井祐樹という格闘家のことが伝わる。いままではコアな格闘技ファンしか知らなかったこの伝説の試合が、普通の週刊誌や普通の漫画を読む人に永遠に伝わるんだと思うと、本当に原田先生と編集部に感謝の気持ちでいっぱいです。殴られたり眼をえぐられたらどれだけ痛いか。その想像力が今の日本人に薄れてきているんじゃないかなって思うんです。

——中井祐樹の回は、予定を大幅に超えて長く描かれているそうですね。

原田久仁信 きっちりと描かないとね。特に僕の世代は勘違いして見ていて、ずーっとそのまま置き去りにされてきた人っていっぱいいると思うんです。それが、この連載で、ああ、そうだったのか、って事実を分かってもらうだけでもね……。

増田俊也 『木村〜』の本の中で、中井が僕に「すみません、あの時、嘘を言ってしまいました。『木村先生が負けた』って言えませんでした」って告白したことを書きましたよね。中井に言われたから、僕はそこから内容を変えなきゃいけなかった。でも、こんなことをやってのけた人間に、僕は頭を下げられたんですよ、手をついて。今みたいにルールが整ったMMAとか総合格闘技じゃなく、バーリトゥードを戦った男に。体重も無差別で、1日に3回勝たないと優勝できない。当時の動画を見ると、ヒクソンでさえ控え室で緊張しているじゃないですか。「次は誰だ?」「その次は誰だ?」って、水を飲みながら歩き回っている。


「中井さんをリングに上げた佐山聡もすごい」(原田)

 

原田久仁信 あの増田さんに送ってもらった動画ですね。勝ち上った中井がヒクソンの控え室に入っていこうとするのも凄く臨場感がありました。

増田俊也 海外のヒクソンのドキュメンタリー映画『CHOKE』の映像です。準決勝を勝って花道を引き揚げてきた中井が「ヘイ! ヒクソン!」って大声を上げて、“俺が決勝まで上がってきたぞ”と控え室に乗り込もうとするシーン。それをセコンドの朝日(昇)さんや九平さんが「中井!」と必死に腕を引っ張って、中井の興奮を抑えてる。あれを見て、こいつ、ほんとうにヒクソンに勝つつもりで1回戦から戦っていたんだなって……。

原田久仁信 当時の僕は、中井さんが最後まで残ったことで、せめて山本(宜久)が上れば……、と思っていましたからね。要するにあの体格差があって、せめて勝つ可能性があるやつが残った方がよかったと僕は思って。何も知らないで、ただ見た目でそう思っていた。一方的な報道で……。

増田俊也 あの会場で中井が決勝に上がってくるって、ほんとうに思っていたのは、中井1人だと思いますね。

原田久仁信 試合後の中井さんの写真を見たら、片目に包帯をつけながら、まだやる気満々の表情だった。

増田俊也 世間の評価をひっくり返して、競技者として「これからだ」って思っていたと思うんです……。

原田久仁信 そうだろうな……。しかし、中井をこの場に上げた佐山(聡)もすげぇなと思いましたね。よく見ていたんだな、と。佐山が格闘技側に転向したときは、もったいないなと思ってんです。天下取ってからでもいいんじゃないのと。だって、あの時は猪木よりも人気がありましたからね。天才で、走り過ぎちゃって後が追いつけない、そういうところがある。早すぎるんですよ、全部が。タイガーマスクってニューヨークなんかでも外国人が熱狂したじゃないですか。僕はあれで十分だと思ったのに、まだ上を見ているんだと思って、しばらくはずっと取材していましたね。アメリカンスクールで八角形のリングを作って見せた時にも行ったりしてね。ただ、「ああ、もう佐山はリングに上がってくれないんだ」って思うとだんだんと……。僕は佐山自体が好きだから、佐山が競技者としてリングに上がる姿が見たかったんですね。佐山本人も辛かっただろうけども。でも、ビジョンがあんなに先に行っているとは思わないですからね。見えているもの、景色が全然違ったんだなと。こっちはまだほら、佐山にタイガーマスクを引きずりながら見ていたから。でも、そこで次の世代、中井を見抜いたっていうのはやっぱりすごいなと思いますね。

増田俊也 当時、中井も直訴していたみたいです。「僕を出してください」と。ホイラーの黒帯のアートゥー・カチャーとバリジャパルールで引き分けて認めさせた。さっき原田さんが仰ったように、本人は言わないけど、夭折した友人たちへのいろんな思いもあったんだと思います。それがこうして世間に届くっていうのが……、いや、別に格闘技じゃなくてもいいんです。一生懸命やっている人がこうやって認められるっていうことが、嬉しい。

原田久仁信 中井さんは間違いないくらいに無名じゃないですか。それが自分の意志でのし上がった瞬間だったんだなというのが僕の今の感想なんです。そのとき僕は見損なっていますから。ただ通過して、決勝でやっぱダメだったなって。ヒクソンにしか意識が行っていなかった。ホントはみんなが想像もしていないことを中井が1人でやっていたんだなって……。


「あの試合は『七帝柔道記』の原点でもあります」 (増田)

 

増田俊也 さっき中井の親友が夭折したことに触れられましたけど、僕は『七帝柔道記』(角川書店)を書くときに、こう考えたんです。あの作品に出てくる僕の同期の竜澤(宏昌)が、もし引退してすぐに23、24歳くらいで死んでいたら、いったい僕はその後、どういう人生を送っただろうと。あの作品で僕は中井の気持ちになって書いたんです。

中井も僕も副主将ですから、主将の吉田が夭折したというのは僕にとって竜澤主将が死んだのと同じことです。吉田寛裕が夭折した時に親御さんのところに行ったら、お母さんたち御家族が「北海道で寛裕はどんな生活をしていましたか」って僕に聞きたがるんです。こんないいところがあったんですよ、こんなふうに人を笑わせてたんですよ、こんなヘマをしたけれどみんなに愛されていましたって、どんな小さなエピソードでも聞きたがるんですよ。きっと23、24歳で竜澤が死んでいたら、竜澤のお父さんやお母さんも同じように聞きたがるだろうなって。そう思って書いたんです。他の登場人物も、同じような気持ちで心をこめて書いた。御家族に「こいつはこんなに魅力的な男だった」って説明するように書いた。だから書いている間はずっと泣いてました。もし彼らがいなかったら、僕の人生、全然変わったものになっているだろうなって。3期離れている僕でも吉田寛裕のことを忘れたことは一度もない。あんな魅力的な男はいなかった。中井も含め、吉田の同期たち、そして御遺族の気持ちは想像もできない……。『VTJ前夜〜』が掲載されたゴン格が出たときに、ある格闘技関係者から聞かれたんですよ。「中井さんから北大柔道部時代のことはよく酒席で聞かされるんです。でも吉田さんのことは話されたことがないから知らなかった」って。それを聞いた時に、中井の気持ち

をすごく……考えたんです。同期の親友が一番の青春の盛りに、柔道で一番強いキャプテンをやっていて、これからっていう時に逝ってしまったら……言わないからこそ、余計に響くんです……。僕も聞いたことはないし、聞けない……。ほんとうにあのとき、武道館のリングに並んだ時に、中井1人だけ小さかったんです。でも、大きな覚悟があったんだと……。吉田寛裕と甲斐泰輔君、そしてシューティング、真剣勝負のリングの確立……さまざまなものをあの小さな体で背負っていた……。

「梶原先生も、もっと木村政彦を描きたかったと思う」(原田)
 

——なるほど……。漫画連載の第1回、オープニングは、短刀の切っ先を腹に突きつけている木村政彦の画でした。原田先生は、なぜこの画で行こうと?

原田久仁信 この最初の表紙はすごく悩みましたけど……。なんて言うのかな。要するに、覚悟は出来ていながら、切腹はしなかったっていう、木村の矛盾みたいな部分があるじゃないですか。それが冒頭でパーンと出た方が、読者が木村政彦に興味を持つかな、と思ったんです。この部分はずーっと謎ですよね。僕は……、切腹して欲しかったですよ。『男の星座』の梶原先生の原稿で「木村が短刀を持ってうろついている」っていう場面が書かれていて、それを画に描いた時、僕もすごい嫌だったんですよ。梶原先生も嫌がっていたけど。「なんで天下の木村が」って、梶原先生の気持ちがすごく分かりましたね。

増田俊也 どうして短刀なんだって。大山(倍達)先生も言ってましたよね。「なんで素手で行かないのか」って。

原田久仁信 そうなんですよ。狂気めいてる。本人の気持ちは謎ですよね。いつでも腹を切れる人間が、短刀を持って付け狙った。それほど力道山戦は……。

増田俊也 ある意味、中井はバーリトゥード・ジャパンで切腹したわけじゃないですか。きっと、木村先生も力道山戦が24歳の時だったら……。でもそれが、戦争を挟んで37歳になっていた……。

——これまでの原田先生の作品の視点は、力道山側だったり、プロレス側であることが多かったですよね。これまでの読者にとっては、「転向じゃないか」と批判される可能性もあると思うのですが。

原田久仁信 そうですね……。僕の中では完全に“精算”みたいな感じですね。

増田俊也 精算、ですか……。

原田久仁信 プロレスばっか描いていましたからね。原点で言うと、やっぱり木村政彦が犠牲になってのプロレス人気という部分もありますから。あのとき木村政彦がもし勝ったとしても、プロレスはダメだったような気もするんですが。それでも当時、人身御供じゃないけど、生贄みたいに木村政彦っていう戦前のでっかいビックネームが沈んで、力道山という新しい太陽が昇っていった。だから、もし『男の星座』の続きを梶原先生が書いていたら、どんなのを書いたのかと想像しますよ。書かないわけないですからね。あんだけ好きで憧れていた人ですからね。

増田俊也 木村先生と同じ熊本(出身)ですし、木村先生に憧れて柔道を修行していた梶原先生ですからね。


「真樹先生は『男の星座』の続編を書こうとしていた」(原田)

 

原田久仁信 梶原先生にとってリアルタイムじゃないですか。しかも思春期に目撃している。だから、どう書いたんだろうなとホントに思うんです。『KIMURA』で僕が一番惹かれたのは、増田さんの「あの(『男の星座』の)続きになるんです」っていう言葉ですね。あれは真樹(日佐夫・梶原の実弟)さんも書きたがっていたし。鬼籍に入る2年前にも、「オレ、書こうかと思っているから、どっか(掲載する雑誌は)ないか」って電話をしてきましたからね。

増田俊也 やっぱり真樹先生にも続きを、という思いはあったんですね……。

原田久仁信 2回目ですよ。随分前にも1回あったんだけど、そのときは(梶原一騎の)奥さんも反対していたみたいで「あれはもう未完で完成なんですよ」って、真樹さんのいる場で言っていましたから。だから引っ込めたんだと思います。でも2年くらい前に、「みんなが続きを書いてほしいって言うんだよ」って電話口で言うから、僕も「そうですか。真樹さんが書くんであれば」という話をしたんですね。

——この扉画を拝見した時に、すごい迫力だなと感じました。原田先生の覚悟も伝わってくるような……。

原田久仁信 うーん、そうですね……。殺される気でやるって感じです。いや、ホント死にますよ。この歳で連載は。

——もう還暦を越えられて。

原田久仁信 最初は無理って言ったんですよ。あと10年早ければ、って言いましたけれどね……。でもやっぱり、『木村政彦〜』を読んで、なんでこんなに強情なまでに取材していくんだって。僕なんかが若いころに捨てちゃったもんをいつまでも持っているんですよ、増田さんが。だから……。

増田俊也 その執念の原点は、やっぱり中井の試合にあったんです。僕はこれ(VTJ95)を見ちゃったから……。

原田久仁信 うん。でも、普通、三十過ぎたら捨てますよ(笑)。

——六十を過ぎて、再び『男の星座』のように気持ちを持ち上げることも大変だと想像します。

原田久仁信 それはね、俺が描きたかったというのがある。他人に描かせたくなかった。木村、力道山戦を。へたなやつに描かせたくなかったというのはありますね。もう、自分の中ではすんごくデカいんですよ。力道山や木村政彦が……。やっぱりホームベース踏みたい、みたいなところがあります。ランニングホームランでもなんでもいいから……。なんかね、2塁付近でウロウロしていたような感じはありますよ。打つだけ打っておいてね。消化不良な部分がありましたよ。プロレスにしても、中途半端だった。梶原先生の事件があって、マスコミからバッシングを受けて『列伝』が中断した。なんで終わるの? って思いましたよ。なんで? 書き続ければいいのにって。

『男の星座』はもう、まさに二度と書けないような、みなぎってる感じじゃないですか。それが梶原先生が亡くなられて……、気が抜けたというか。やる気がホントにしなかったですね。ましてや梶原先生が原作を書いていたせいなんだろうけど、嘘が描けないというか。嘘でも上手な嘘なら描きたいんですよ。梶原先生のように夢の見方を教えてくれるようなものなら。なんだろうね、全然違うんです。やっぱりこう、情熱みたいなものが違うんだろうね。ホントに最高のエンターテイメントだったんですよ。だからね、ものすごい洗礼を受けていたんだなって、後から分かりましたね。僕は梶原先生の原作をもらっている時に読者のように読んでいたのがよく分かるんですよ。最初の読者なんですよ。「わあー、こうきたか」って。だから、次の人にバトンを渡さないといけないから、ちゃんと描かないと渡せないというような感じがあったんですよね。だけどね……、やっぱり他の(原作)をもらったりするとね、「えっ、これでいいの?」と思うことがよくありましたね。


「読者に伝えたいという原田先生の魂がこもっている」(増田)

 

——ましてや『男の星座』は「引退作」とまで謳われた本格的自伝作品でした。事件の影響で快く引き受けてくれる版元や描き手がいない中、原田先生は話が来たときに、「お願いします」と即答されたとも聞きます。そういう梶原先生との“最後の原稿”を描いて、頂きを見てしまった後で、新しい作品に取り組むことは、大変だったのではないですか。

原田久仁信 だいたい、僕はあまり描き込むのは好きじゃないんですよ。手抜いてラクに描こうと思えば描ける。でもイメージどおりに描き上げられれば、それはすごく気持ちがいいんです。梶原先生の原作を読んだときは、浮かんだイメージをそのまま写しているような感じだった。ありえないシーンや構図でも想像力で描き上げてしまうくらい。それが……、なんて言うんだろうな、“あの”後は本気になれないというか。ホントにね、漫画は大変なんですよ。みんな命を削って描いているんですよ。だからね、命削って描くまでのものがないとオレは描けない、みたいな感じになっちゃっていたんですね……。ホントに中毒症状みたいな感じですよ、梶原先生の原作の。

 それに現実の人ってなかなか描けないんですよ。梶原先生だから書けたっていうのがあったんですね。だから、あの後、自分一人でもプロゴルファーとか、長州(力)や藤波(辰爾)を取材して描きましたけど……、もうなんて言うんだろうな、表面だけ、サラっとしたものになっちゃう。みんなよくそこでいろんな演出して面白く人に見せるように描けるなって思いましたね。僕はやっぱり実際に会うと遠慮しちゃうんですよ。よく描いてやろうと思っちゃうんです。でも、梶原先生の原作の時は容赦なく描いていたんですよ。全然遠慮しない。弱いとされた人はホントにもう、弱いように描きました。だけど、自分で取材をしたりするとね、負け役だって手を抜いちゃうんですよ。だから、こんなふうに描けないですよ。中井さんをこんなに無様にボコボコにできない。僕、中井さんに会ってないし、今、すごい容赦ないですよ。だけどその代わり、中井祐樹を前面に出してあげたいという気持ちがある。たぶん、増田さんだったらここまで……。

増田俊也 書けないです……。

原田久仁信 文章でここまでボコボコにしないでしょ。泣いちゃってね(笑)。

増田俊也 すごい魂ですよ、原田先生の。読者に伝えたいっていう。

原田久仁信 だってもう、このときの中井さんは何分も戦って、身体だけじゃないでしょ。心もボロボロで。この会場で、一人ぼっち。ひどい野次の中でね、ロクなこと言っているやついないんだから。

増田俊也 ゴルドー戦でこうやって寝た時に、「カモン!」って言ったでしょ、中井が。

原田久仁信 腫らした顔でね。

増田俊也 僕はあれだけの精神性を持った人間を他に見たことがないです。

原田久仁信 全国的にはマイナーなニュースで、勝って称賛されない。負けて誰も評価してくれない。一番、キツいパターン。ある意味、木村政彦よりも辛いですね。木村政彦は手にするものは手にしていたんだし、油断しなきゃヘタすりゃ勝てたんだし。だって中井さんは2人に勝って1人に負けただけなのに、世間的には誰にも称賛されていないんですよ。

増田俊也 でも、今まで格闘技のコアなファンしか知らなかったことが、原田さんや『週刊大衆』編集部さんのおかげで、いろんな人たちに伝わる。それが、今を生きる格闘家たちにとっても、どこかで手助けになってくれれば……。格闘家が田舎に帰って、「格闘技をやってる」って言ったときに、「ああ、長州なら見た事あるよ」とか言われて苦笑いしていたのが、「ヒクソンや中井って、すごいんだって?」って言う人が必ず出て来る。今さら、バリジャパなんて古い話を持ち出すなという人もいるでしょうけど、僕は僕のフィールドで世間が分かってくれるまで言い続けたいと思うんです。世間と戦い続けたい。だって僕にはMMAを戦う技術も体力もないし教える技術もない。それは中井たち指導者や選手たちがやること。それぞれがそれぞれ得意のフィールドで世間と戦っていく。そうすれば、もういちど格闘技というものが世間に新しい形で届くようになるはずです。そのときこそPRIDEのときのような格闘技バブルではなく、本当の意味で格闘技というものが世間に認知されるはずです。それがなされるまで、僕は僕のフィールドの筆で世間に真剣勝負で訴えていく。



「サプリメント飲みながら真剣勝負で描いてるんです」(原田)

 

——その情熱に、原田先生も衝き動かされたのではないでしょうか。さきほど、原田先生、梶原先生が亡くなられて「やる気がしなかった」と仰いましたが、筆を置かれた時期もあったそうですね。

原田久仁信 ああ……、ラーメン屋をやってましたね。自分の仕事が全部、バッと終わって……。それが、まさか「他人に描かせたくなかった」なんて(苦笑)。まだそんな気があったんだなと思いましたね、僕も。

増田俊也 僕は原田先生がラーメン屋をやってる時期に大学を辞めて土方(土木作業員)をやってました。そのあとも体を壊したりもしたし……。でも、こうして地に足を着いて生きてきた原田先生と僕だからこそ描ける風景があると思うんです。2人とも昭和世代でいい齢いってますけど、今の若い作家や漫画家さんたちに、魂の部分では負けないようにしようっていう話を2人でときどき電話でするんです。

原田久仁信 そうですね。気持ちの部分はね。でもやっぱり身体はね……(苦笑)。昔っから僕、言っているんですけど、一番死にたくないパターンですよ。原稿を描き上げて死んでる、それで「ああ、オレのところの原稿は上がっていて良かった」って胸を撫で下ろす編集さんが残るっていう(笑)。何人もいるんですよ、そういう漫画家って。それでオレ、それだけはなりたくないって言ってたのに、まさにね、そこに突き進んでいるみたいな感じですね、今(苦笑)。

増田俊也 週刊誌連載って、ほんとうに地獄でしょうね。冗談交じりで先生が電話で言ってましたけれども、どこか本気で言っているところがあるんじゃないですか。

原田久仁信 だから、サプリメント飲みまくっていますよ、オレ。健康器具なんかも買ってきて、やってますもん。ホント、足が攣ったり。ラーメン屋の時も足が攣ったりしましたけど、座っているだけなのに足が攣るか! と思って。半端ないですよ、座っている時間が。

——コルセットを着けて描かれていたときもあったそうですね。

原田久仁信 でも、若い時はここまでやらないね。もっとラクに描けたから。だから、今の方が必死さが出るかもしれない、画に。目もダブってるし。ちゃんと見える時にちゃんと描こうと思いますからね。で、疲れたらすぐに目を休めるって感じにしてますから。多少の歪みは、もう勘弁してください(笑)。

増田俊也 そういう命懸けの先生の仕事に対する情熱を見て僕は本当にいろいろ学ばせていただいています。こうして一流の先生に接することができる僕は幸せです。

——そうですね。原作には結末があるわけですが、原田先生のなかでは、画は決まっているのでしょうか。

原田久仁信 まだ、全然おぼろげですね。どこに行くんだろう? みたいな感じはありますね。

増田俊也 和泉(唯信・北大柔道部元主将で増田の2期上、医師にして浄土真宗僧侶でもある。『七帝柔道記』にも主役級で登場)さんと電話で話したんですけど、これだけ原田先生が中井の方に気持ちが行ったのは、いろんな魂が、それこそ先に逝って星座になった男たちが導いてくれているんじゃないかって。それは梶原先生であったり、木村先生であったり、力道山先生であったり、中井の親友の吉田寛裕や甲斐泰輔君だったり……。

——『七帝柔道記』で和泉さんが広島弁で言う「思いはのう、生き物なんで。思いがあるかぎり必ず繋がっていくんじゃ」という言葉が思い出されました。

増田俊也 ああ。あの言葉は日本経済新聞の文化面に紹介されてました。北大柔道部主将の言葉としてそのまま掲載された。この間は『AERA』に竜澤の言葉も掲載された。すごく嬉しかった。世間に届いたんだ、と思いました。僕が地道にやっていることが少しずつ届きかけている。

——原田先生が今、これを描きたくて描いていると知ったら、梶原先生も喜んでくれるんじゃないですか。

原田久仁信 だといいですけどね。まだやっているのかと言われるかもしれないですよ(笑)。

増田俊也 以前、原田先生がお話されていたじゃないですか。梶原先生の奥様の枕元に梶原先生が立ったらしいですよって。それで、「こっち(天国)は楽しいぞ」って嬉しそうに言ったって。「みんないるぞ」って。それを聞いた時に、僕はすごく晴れやかな気分になったんです。そういえば、岩釣先生の奥様のところにも、岩釣先生が来てくれたそうですよ。

原田久仁信 そうなんですか。

増田俊也 仏壇の前で手を合わせて泣いていたら、岩釣先生が来て、背中をずっとさすってくれたそうです。何時間も経ってから「そろそろ帰らなきゃいけないから」と言われて、「なんで」って言って岩釣先生の体を触ったら、すごく冷たかった。ふと気づいたら、消えていたと。

原田久仁信 そうですか……。この連載は、梶原先生にももちろん読んでほしいし、梶原先生や木村政彦、力道山、それから中井祐樹、そういったものを知らない読者にも、多くの人に読んでもらえるような作品にしたいですね。

増田俊也 そうですね。天に瞬く男の星座たちが「こんなこともあったなあ」とかつて仇同士だったみんなで酒を飲みながら読んでもらえるような作品になると思います。


(「ゴング格闘技」2013年8月号掲載) 
 

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▶「増田俊也「七帝柔道記と中井祐樹を語る」インタビューはこちらから。 

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※この対談が掲載された「ゴング格闘技」8月号はUFC他、あらゆる世界の格闘技の最前線を報じています。 青木真也VSクロン・グレイシーの夢の対決など素晴らしい記事であふれています。青木真也は中井祐樹の最強の弟子、そしてクロン・グレイシーはヒクソン・グレイシーの息子。まさに1995年のバーリトゥードジャパン95以来、その遺伝子が18年ぶりに激突する夢の対決でした。

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