作家 増田俊也オフィシャルサイト
「大相撲がなくなってもいいのか」
増田俊也
■和泉唯信が琴光喜を擁護する理由とは。
「琴光喜のどこが悪いんじゃ!」
日本相撲協会からトカゲの尻尾切りのような解雇処分が発表された夜、電話があった。北大柔道部の二期先輩にあたる和泉唯信さんである。怒っていた。
「このままじゃと、ほんまに大相撲がなくなるで。世間は大相撲を潰す気かい。それでほんまにいいんかい。相撲界っちゅうムラの中で遊んじょる分には何してもいいじゃろが。博打でも女遊びでもさせてやりんさいや。彼らは普通の人じゃないんじゃけ。普通に扱こうちゃいかん。丁髷結った相撲取りに街のゲームセンターで一枚十円のコイン買うて遊んじょれ言うんかい。わしら社会が彼らに丁髷結わえさせて百年も二百年も特殊な世界に押し込めといて、いまさらそんなこと言うたら彼らどうすりゃいいんじ
ゃ。サラリーマンみたいな暮らししちょれ言うんかい。できるわけないじゃろが。丁髷結っとるけ、どこ行っても相撲取りじゃいうて指さされるんで。どうしろっちゅうんじゃ」
和泉さんのこの広島弁は『七帝柔道記』(「月刊秘伝」連載中)の読者にはお馴染みであろう。ときどき、あの物語の後、登場人物たちはどうなるのかと問われることがあるが、和泉さんは北大の理学部数学科を五年かけて卒業した後、医学部に再入学している。現在は神経内科医として大学病院で臨床に携わりながら、ALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病病態解明に情熱を傾けている。そして地元広島で病院や老人保健施設を経営し、グループの従業員五百人を抱える長でもある。
だが、和泉さんの本当の顔は浄土真宗「法正寺」の第十九世住職だ。
事業家としても活躍している和泉さんは地元の各界に金の援助を惜しまぬ〝タニマチ〟としての顔を持っており、逆に寺の住職として檀家衆から布施を受ける立場でもある。はかない浮き世の持つ意味を深く思慮し、さらに医師として患者の臨終を見届け、袈裟に着替えて坊主として経を唱える。あらゆる世界を常にバランスよく見ている。
和泉さんは言った。
「あんた、聞いたことあるかいね。現役時代の北の湖が女性の枕元に十万円を静かに置いて部屋を出ていったちゅう話を」
「それは一晩を共に過ごした女性の枕元にということですか」
「そうじゃ。朝稽古は早いけ、まだ女性が寝とるうちに起きにゃならんじゃろ。じゃけ、起こさんように十万円をそっと置いていくんじゃ。そういうことを親方衆が教えたのかタニマチ衆が教えたのかわからんのじゃが、横綱ちゅうても当時まだ二十代そこそこの若者で。普通、二十代の子供にそんな粋な気づかいができるか。彼らの現役当時の顔を写真で見てみんさいや。大鵬やら北の海やら輪島やら。とても二十代の顔に見えんじゃろが。五十代や六十代の大人の風格で。そういう顔を短期間に作るのが相撲界の特殊性を物語っとるじゃろが」
「たしかに・・・・・・」
「彼らは普通に扱うちゃいかんのじゃ。特別じゃ。わしはのう、極端なこといえば八百長でさえ許されると思うちょる。大相撲のどこに真剣勝負じゃて標榜されとるんじゃ。互いに苦しいときに星の貸し借りをする。いいじゃないか。大相撲は特別じゃ。ひとつの文化じゃ。わしは昔のままの大相撲として残ってほしいんじゃ。悪いことを日常茶飯事として受け入れるのは、たしかにいかん。じゃがの、僧侶として言わしてもらえば、正しいことが悪いことであり、悪いことが正しいことなんじゃ。この大相撲問題はのう、今後の日本を占う上で参院選よりよほど重要なものになるで」
私は和泉さんのすべての言葉に納得した。まったく同じ考えだったからである。
今回、この文章を出すにあたって危惧することもある。それはいまこの時期に大相撲を擁護すると、潔癖な人たちに反社会的発言と捉えられかねないということだ。
しかし、和泉さんが宗教家であるように、私は作家である。宗教家も作家も、ある意味で社会人としてではない発言を許される特殊な職業だ。彼ら力士たちの危機に発言するのは義務でもある。
私には、野球賭博問題のマスコミ報道で、国民がまったく同じ方向を見させられていることの方が危険に見えてしかたがない。テレビや新聞に登場する識者談話や芸能人のコメントは、単なる無知から出るコメントだろうが、これらの言葉だけがまき散らされるのは、社会としてはあまりに危険である。
たとえば彼ら識者や芸能人が言うコメントに「大相撲は国技だから」という言葉がある。しかし、実は大相撲が国の機関によって国技とされた歴史は一度もない。
国家機関によって定められた国技には、たとえば韓国のテコンドー、チリのロデオ、バングラディシュのカバディ、カナダのアイスホッケーなどがある。
だが、大相撲は違うのだ。
国技という言葉を使う場合、テコンドーのように国家によって定められた競技をいうときと、単にその国で深く親しまれている競技を指す場合もある。アメリカの野球などと同じく、日本の大相撲は定義が曖昧な後者である。四年に一度の五輪のときにはマスコミは国技柔道などと言う。まったく馬鹿げているではないか。
大麻所持で逮捕された露鵬と白露山の二人が「他のスポーツに比べ処分が重すぎる」として解雇無効と地位確認を求めた訴訟で、東京地裁は今年四月十九日、「国技たる相撲を他のスポーツと比較することは適切でない」と、「国技」という文言を使って退けた。しかし、これはあくまで判例であって、国が大相撲を国技と定めたわけではない。
また、内舘牧子氏は朝青龍問題のときにこう言った。
「大相撲には相撲道の精神がある。それを無視した朝青龍と、ビシッとした態度を取らない師匠(高砂親方、元朝潮)がいるから私は鬼のように怒らなきゃならなかった」
しかし、内舘氏は相撲道という言葉の意味を知って使ってはいない。
内舘氏の言う相撲道とは何なのかというと、もちろん武道の「道」という言葉、すなわち嘉納治五郎が古流柔術から講道館柔道に名称を変更する際に用いた言葉を、相撲の後ろにくっつけて流用したにすぎない。
嘉納がはじめに「道」という名を用いたのはあくまでそれまでの古流柔術と差別化をはかるためのCI(コーポレート・アイデンティティ)だった。伊奈製陶が便器製造のイメージを払拭するためにINAXに、大洋漁業が漁業という古い名を消すためにマルハに社名を変更したのと何ら変わらない。
もちろん嘉納は、大量に残した活字のなかで、この「道」について多くの意味を付与している。たとえば、柔道をやる目的は己を完成し世を補益することだと。
しかし、嘉納は最初からこれらを目的として講道館を起ち上げたわけではない。彼は、木村政彦連載で書いてきたように、若い頃は好戦的で激しい性格だった。もともとは、古流柔術が廃れゆくのを憂い、実戦的武術を残していかねばという思いで講道館を興したのである。意味づけはその後にされていったのだ。
二十代で新しい柔術流派を興した嘉納が、三十代、四十代、五十代となり、弟子たちとともに成長していくなかで悩み思索するうちに言葉として昇華されていったのが、残された数々の言葉なのである。社会学者の井上俊氏(甲南女子大学教授、京大柔道部OB)は、古流柔術を抑え講道館が一人勝ちした理由を《(対古流柔術の)実戦の勝利というよりもむしろ「言説の勝利」であった》(『武道の誕生』)と言い、《(嘉納は)柔道について倦まず弛まず語り続けた「言説の人」でもあり、その精力的な言論活動を通して、もはや武士階級の存在しない近代社会における柔道の存在意義を確立することに成功した》(同前)と断言している。
まだ雑誌媒体などほとんどない時代、嘉納は講道館機関誌をつくって精力的に自身の考えを発表していったのだ。その中から生まれたのが「道」という概念である。
この「道」に関して柔道関係者と話すことは私もよくある。相手も話すし私も話す。だが、それはいいのだ。根幹に柔道への愛情があるからだ。嘉納治五郎の創った柔道を、より豊饒なものとして吸収し、自分たちの人生に生かすために話をする。嘉納師範亡き後も、修行者たちが武道論の議論を重ねることによって、柔道はより大きくより深いものになっていったことを私たちは知っているからだ。
しかし内舘氏の問題は大相撲に対する愛情がないことだ。内舘氏がこれらの歴史をわかったうえで相撲道という言葉を使っているならまだいいが、間違いなく知らない。なぜなら彼女の朝青龍に対する言葉の数々が、まさに「道」に則って発せられたとは思えないものばかりだからだ。
自身の横審委員(当時)という立場やマスコミに対する影響力を考えれば、彼女が喋れば朝青龍が世間のリンチにあうことは当然わかっていたはずだ。サラリーマンが酒場で披露する相撲論や主婦の井戸端会議ではないのである。内舘氏だけではない。他の識者談話もひどすぎる。
私たち日本人の多くは、かつて農耕をやり、土と泥にまみれて生きていた。人糞をまいた水田にふんどし姿の素足で入り、田植えをやっていたのだ。いま、それらを力士たちに押しつけて裸足で土の上で戦わせ、問題があれば神事なのに国技なのに相撲道なのにと責める。私たちは革靴やハイヒールでアスファルトの上を歩き、コンクリートの建物の中で土や泥と無縁で生き、彼らにそれらを押しつけているのにである。
最近の外国人幕内力士の激増ぶりは、日本人の子供たちが誰も相撲界に魅力を感じなくなり入門しなくなったのが大きな原因だ。朝、早起きしてみると新聞を配っているのが日系ブラジル人だったり、コンビニへ行けばレジを打っているのが中国人女性だったりする。
彼ら彼女らは私たちの代わりに〝おいしくない職業〟に従事してくれているのである。外国人力士たちも同じだ。彼らは私たちの代わりに日本の神事を受け継いでくれているのだから、感謝を忘れてはならないと思う。「誰も頼んでやってもらってるわけではない」と反論する人々もいるであろう。しかし、歴史的にみると、大相撲は自らの団体の意志だけではなく、天皇家や将軍家、そしてマスコミ(これはわれわれ一般人の要望と言い換えてもいい)の意図する方向へ向かって進化してきたものだとわかる。
内舘氏は「朝青龍には日本や角界に対する敬意がない」と断じたが、この言葉にこそ、彼ら力士に対する敬意がまったく感じられない。相撲に愛情がないからこんな言葉が吐けるのだ。
相撲の歴史を、順に紐解いてみよう。
それはまず『古事記』や『日本書紀』の中の伝承に始まる。前者には建御雷神と建御名方神の戦いが、後者には野見宿禰と當麻蹶速の戦いが出てくる。
これらの書物に出てくること自体が、相撲が神道に基づいた神事であることがわかる。
いまも日本各地の祭に奉納相撲が多く残っているが、もともとは神に相撲を奉納することによって五穀豊穣を祈り、また死者の魂を鎮めて災いを防ごうという地鎮のふたつの意味を持っていた。
力士が四股を踏むのは、まさにこの地鎮をそのまま意味している。四股の語源は醜(邪霊)で、力自慢が強く地面を踏みしめることによって地中の邪霊を鎮めるのが目的である。
奈良時代になると、聖武天皇によって天平六年(七三七)、初めて天覧相撲が行われた。そして以後、宮中行事にしっかりと組み込まれていく。このように、そのもともとの出自からして大相撲は天皇家と非常に深い関係がある。
平安時代に入ると、相撲節会という名で毎年七月に定期的に天覧相撲大会が開かれるようになった。皇族たちは日没までこれを観戦しながら一日を楽しんだ。
鎌倉の世になると、源頼朝が大いに相撲を奨励した。相撲の格闘技的側面が見直されるようになったのである。代々の将軍たちはみな相撲好きだったようだ。
室町時代は足利将軍家による相撲の上覧が行われたが、相撲史的には闇黒時代と呼ばれ、お上による相撲はあまり盛んではなかったようだ。しかし、全国各地に奉納相撲としてあまねく広がっていく。
戦国時代になるとまさに実戦のための相撲が広まり、織田信長などは何度も相撲大会を開いて大いにこれを奨励したという。天正六年(一五七八)には近江から三百人もの強者を安土城に集め大会を開いたことが『信長広記』に記されている。この時代には、相撲と古流柔術の源である組討や捕手などははっきりと分化していなかった。あまり知られていないが、古流柔術の技術には相撲の血も流れている。そんななか戦国末期には相撲を専業とするプロ集団も誕生してくる。
江戸時代に入ると、中国大陸から本格的に格闘技技術が流れてきて、組討や捕手、相撲などと交じり合い、さらに老荘の思想や中国医術の影響も受けて古流柔術が誕生する。ここから相撲と柔術が技術的にはっきりと分化し、別々の発展をしはじめる。思想的にも、相撲が神道に基づいた神事であるのに対し、柔術は老荘の思想を強く引いていく。
江戸初期は、戦国時代の空気が忘れられぬ体制からのはみ出し者たちによって辻相撲が流行り、人波のある往来で殺し合いの喧嘩に発展することもしばしばであった。このため、江戸幕府は辻相撲禁止令を出し、すでに戦国末期に現れていたプロ相撲の者たちも併せ、彼らの受け皿とするために勧進相撲を作った。
これが現在の大相撲の母体である。
勧進相撲の管轄は寺社奉行だった。
寺社奉行所が許可を出すと、「蒙御免」と書かれた看板を興行場所に掲げる義務があった。いまでもこの看板は大相撲本場所では必ず会場入口に掲げられ、番付表にも墨書されているが、これらはそのときの名残である。プロの大相撲興行は、こうして江戸幕府の統制下のもとに始まったのだ。
はじめのうち、大相撲は京都や大阪の興行が圧倒的に強く、江戸の力士たちは相手にならなかったという。これは他の文化と同じである。江戸と上方の文化や相撲の強弱が入れ替わるのは一八世紀の後半だ。江戸勧進相撲から、谷風、小野川、雷電と、次々に花形力士が産まれ、第一期黄金時代に入る。
江戸幕府がこの勧進相撲を完全に庶民の娯楽として公認するのは寛政三年(一七九一)の十一代将軍家斉による上覧相撲が始まりである。幕府に対する庶民の不満を解消させるために必要な娯楽として大いに奨励された。
はじめは年に三度の興行だったが、江戸中期に年に二回の興行に固定され、安永七年(一七七八)、一場所が十日と決められた。いまでも残る「一年を二十日で暮らすいい男」という川柳はこの時代に詠まれたものである。年に二十日間だけ相撲をとって飯が食える相撲取りを揶揄したものだ。
この天下泰平の江戸時代、人気を誇ったものが、相撲、歌舞伎、吉原だった。どれも粋人の遊びとして巨大化していく。この頃の相撲の錦絵を見たことがある読者は多いだろう。錦絵はいまでいえば芸能人のブロマイドのようなものだった。あの派手な絵が現すそのまま、まさに豪華絢爛たる相撲の黄金時代であった。花相撲には女性ファンが殺到し、興奮して羽織や帯まで投げ捨てる狂乱ぶりを見せたというからその人気のほどがわかる。
しかし、この人気は明治維新で一気に廃れる。
進歩的知識人や役人たちが「裸踊りは即刻廃止せよ」と言いだしたのだ。これは野蛮と決めつけられてやはり廃れていく古流柔術と同じである。
このとき相撲を救ったのは、またしても天皇であった。維新の際、明治天皇が京都から東京に移る際にもその行列の先頭で力士たちが錦の御旗を捧げ持った。いよいよ世間の糾弾から生息吐息となった東京相撲が盛り返したのも、明治十七年(一八八四)の天覧相撲がきっかけであった。
そして、明治二十八年(一八九四)に始まった日清戦争と明治三十七年(一九〇四)に始まった日露戦争が尚武の気風を呼んで、相撲人気は一気に回復していく。これは講道館柔道の普及がこの二つの戦争で加速したのとまったく同じである。
常陸山と二代目梅ケ谷の両横綱による爆発的人気で興行は黒字につぐ黒字を産み、明治四十二年(一九〇九)、両国に常設館を建てた。辰野金吾設計の日本初のドーム式建築物だったこの常設館は一万人以上収用できる、当時としては飛び抜けた威容を誇る巨大な建物だった。
板垣退助はこの常設館に「両国尚武館」と名付けようとしたが、作家の江見水蔭が開館の案内状に書いた「そもそも角力は日本の国技」という思いつきの一文から両国国技館と命名された。相撲が国技だとされる〝間違い〟はここに始まる。
組織もこれらの発展に合わせて改変されていった。
かつて相撲会所と呼ばれていたものが、明治二十二年(一八八九)に東京大角力協会に、大正十四年(一九二五)には財団法人化され大日本相撲協会となる。この財団法人化は、摂政皇太子であった昭和天皇台覧時に下賜された奨励金から摂政宮杯(いまの天皇賜杯)を作った際、一興行主による興行に天皇家からの優勝杯を授けるのはいかがなものかという言葉が出たので、急遽なされたバタバタしたものであった。財団法人化には大した意味はなかったのである。
大相撲ブームは、昭和二年(一九二七)に大阪角力が東京の大日本相撲協会に吸収されて一本化し、さらに昭和三年のNHKラジオ実況が始まって最高潮に達していく。ちなみに柔道の試合が初めてNHKラジオで実況されるのは昭和六年に京都武徳殿で行われた牛島辰熊vs野上智賀雄(旧制六高OB)である。
大相撲の仕切り時間に時間制限ができたのは、実はこのラジオ中継が発端で、それまでは時間制限などなかった。制限なしでは番組編成ができないので幕内十分と決められたのだ。現在は昭和二十八年(一九五三)に始まったテレビ中継に合わせて幕内四分にまで縮められている。
このように、大相撲の歴史は常に天皇家や将軍家の思惑に流され、さらにラジオやテレビというマスコミの思惑にも流されてきた。
戦後、柔道や剣道がGHQに禁止されるなかで大相撲は存続し、昭和三十年代前半の栃若時代、昭和三十年代後半からの柏鵬時代、昭和四十年代後半から始まった輪湖時代、昭和五十年代後半からの千代の富士時代、平成に入ってからの若貴ブームを経て、現在に至っている。
先に書いたように、私たち日本人は、かつて五穀豊穣を祈り、あるいは地中に眠る邪霊たちの怒りを鎮めるために、祭をやって奉納相撲をとり、はっぴ姿で御輿を担いだ。
祭の日は、日常ではない、非日常空間であった。
民俗学者の柳田國男は、この非日常の時間と空間を「ハレ(晴れ)」、日常の時間と空間を「ケ(褻)」とカテゴライズした。ハレとは、まさに晴れの舞台、生涯で特別な日をさし、祭だけではなく結婚式や元服式、正月などもそれにあたる。
ハレには餅をつき、赤飯を炊き、尾頭つきの魚を食い、普段は飲めない高価な酒を飲んだ。ハレの日にはケのときとは違うルールがあった。祭では男たちが殴り合い、地方によってはその晩だけは夜這いが許されたりした。殴っても粗暴な振る舞いだと非難はされず、夜這いをしても破廉恥な行為だとはみなされなかったのである。
大相撲の力士たちは、毎日をハレの日として過ごしている。
生活それ自体がすべて祭なのだ。
世間の人たちが縁日くらいにしか着ない浴衣を常にまとって生活し、褌姿で朝稽古をしてチャンコを食ってすぐに寝ることを繰り返す。そして本場所になれば尻をテレビ画面にさらして頭からぶつかり合い、顔を張り合い、廻しを引きつけ合って土俵に転がり土まみれになる。さらに頭には明治四年(一八七一)の散髪脱刀令によって消えたはずの髷まで結っているのである。
彼ら力士をケに生きるわれわれ一般人と同じルールで裁いてはいけないし、われわれ日常の慣習をもとに同じスケール(物差し)で指弾などしていいわけがない。何度も言うが、われわれは彼らに神事やかつての風習をすべて担わせているのだから感謝せねばならないのだ。
むしろ、彼らを保護してやらねばならない。大相撲は神事だからとか国技だからだとか外部の人間が騒ぎ責め立てるならば、本当に国技にして神事として執り行えばいい。現在あるような文科省所管の特例財団法人ではなく、極論を言えば宮内庁直轄の組織として彼ら力士に特別な地位を与えて国民あげて保護して残すくらいの気持ちがあってもいいだろう。
特区として法律によって「国技」としっかり規定し、大相撲世話係を置き、彼らの指導のもとに、大相撲はなぜ必要なのか、社会的にどんな意味を持つのか、そして私生活ではどこまでやっていいのか、どこからやっていけないのかを親方衆と力士たちにじっくりと納得のいくまで説明してやらねばならない。
その上で話を進めていかないと、彼らのように相撲界で少年時代から育ってきた人間にはなぜ騒ぎ立てられているのか、根本のところの意味がわからないだろう。師匠が兄弟子たちがやってきたことを踏襲してきただけなのだ。日本人力士がわからないのだから外国人力士にはさらにわかるまい。
博打は完全に禁止するならすればよい。相撲界内部での花札だけは容認するならすればよい。何らかの指標をきちんと文書化して説明しなければならない。皇室にわれわれとは違う世界観があり、違う時間が流れているように、やはり違う世界観のなかに相撲取りは保護されるべきである。
これらの手続きをしたうえで、識者たちが「国技なのだから」と指弾するならすればよい。怒るならそれから怒れというのが私の考えだ。
私も力士とは何度も会ったことがある。
彼らはただ体が大きいだけではない。大きな人間は柔道界にもたくさんいる。しかし彼ら相撲取りとは何かが違う。それは鬢付け油の匂いとともにまとった、香るような色気であろう。私たちケに生きる一般人にはない、ハレの世界を生きる彼らしか持てないものである。
■朝潮太郎が北大応援団長の瀧波とぶつかったときにとった態度とは。
彼ら相撲取りの色気を説明するために、内舘氏が切り捨てた高砂親方(元大関朝潮)のエピソードを紹介しよう。
私が北大柔道部時代に同期の応援団長だった瀧波という男がいる。
もう二十年以上も前のことだ。七帝戦の折り、瀧波が団員を率いて繁華街を歩いていると、向こうから相撲取りの大集団がやってきた。
相手集団の先頭にいるのは、よく見ると引退して年寄山響を襲名したばかりの朝潮だった。
瀧波はどうしようかと迷いながらもまっすぐ歩き続けた。当然、両集団は道の真ん中で衝突する。
一メートルほどを空けて、瀧波と朝潮が止まった。ともに後ろに後輩や若い衆を引きつれ、引くに引けない場面だ。
朝潮が、道を空けない瀧波をぎろりとにらみ付けた。朝潮は当時一九〇キロ近くあった大男だ。対する瀧波は小柄な方で、見上げるようなかたちになった。
瀧波は内心逃げだしたかった。
相手は相撲取り数十人、対する北大応援団は数人しかいないのだ。応援団といってもたかが地方の国立大学のそれだ。かつての拓大や国士舘のような強面集団ではない。
しかしそれを表情に出すわけにもいかない。
「山響さんだね」
「ああ」
朝潮は胡散臭そうに瀧波を見た。
「長い間、現役生活お疲れだった」
「ああ」
「俺は北海道大学応援団の団長、瀧波だ。見てのとおり、いま後輩連中を連れている。ここは道を空けられない。おたくに引いてもらいたい」
朝潮は瀧波の目をじっと見ていたが、しばらく考えた後、深々と頭を下げた。
「わかりました」
そして後ろを振り向き、部屋の若い衆に大声で言った。
「おい! おまえら道を空けろ。北大応援団長の瀧波さんが通る。道を空けろ!」
力士たちはその言葉でみんな道の端に寄って、北大応援団をまっすぐに通したという。
年齢は十歳ほど上、体重は三倍近く、社会的地位もある朝潮が、学生の瀧波を立てたのだ。
高砂親方の瀧波に対する粋な行動は、相撲界でハレの生活を送り続け、師匠やタニマチ衆との付き合いのなかから自然に身に付いたものだろう。朝青龍問題で高砂親方がビシッとした態度を取らなかったのも、実はあちこちの顔を立てるために口をつぐんだ大人の対応だったのではないか。
また私は、横綱時代の朝青龍も、同じような場面に立てば、にやりと笑って応援団に道を譲るだけの余裕を持つ男だと思う。そうでなければ、あれだけの数の力士のなかでのし上がり、トップに立つことはできないはずだ。
内舘氏が朝青龍に向けた数々の棘のある言葉は、異国からやってきて苦労しながら稽古に励み、長く一人横綱として角界を支え続けた二十代の若者に対して六十代の大人が吐く言葉ではない。内舘氏にこそ、まさに惻隠の情が欠けているように思えてしかたがない。そして内舘氏らの言葉に振り回される人たちもそうだ。もっと彼ら力士の立場に立って考えてみることも必要だと思う。
朝青龍問題に続く今回の野球賭博事件で相撲界を浄化しなければならないという声が高くなっている。だが、相撲業界と相撲ファンは、一気に浄化を進めようなどとはしてはいけない。このままいけば、本当に大相撲が消滅する可能性がある。だから朝青龍問題も賭博問題ももう相撲界では終わったこととし、警察vs暴力団の戦いとは別問題として考えねばならない。警察が介入したから急がねばと相撲界の浄化を急ぐと、見えない閾値を超えてしまい、ある日突然、大相撲は崩壊していくだろう。
私の家の近くには、まだずいぶん多くの水田が残っている。深夜、コンビニへ夜食を買いに行く途中、その水田のほとんどが静まり返っているなか、何枚かの田からはかしましいカエルたちの鳴き声が沸き返っている。声が聞こえる田は農薬を使っていないところだとすぐにわかる。
昼間、あぜ道に入って腰を屈め、丁寧に田を見てまわると、農薬なしの水田では無数の水棲昆虫や魚類が遊んでいるのに、農薬を使用している水田にはまったく生き物がいない。同じように土があり苗が植えられ水が張られているのに、すべてが作り物のように無機質だ。土も水も死んでいて呼吸が感じられないのだ。
アメリカの水産生物学者レイチェル・カーソンが、かの『サイレント・スプリング』(邦題『沈黙の春』)を発表したのは一九六二年のことである。
カーソンはこの書で農薬などによる化学物質が自然生態系を壊滅させる危険性を訴え、アメリカ政府が進めていた「化学薬品による有害生物絶滅計画」を中止に追いやった。この書の題名は昆虫や動物たちが死に絶え、鳥たちの声が春になっても聞こえなくなることをそのまま現したものだ。自然の生態系が、一見必要ないように見える小動物に支えられた微妙なバランスの上に立っていることをわかりやすく伝え、現在の環境保護運動の大きな源流となった歴史的告発書である。
人間社会もこの生態系と似ている。
一見不要なものも全体のバランスをとるための一つの要素として働いている。一見有害に見えるものも同じだ。それが正しい正しくないは別問題で、バランスをとっている要素であるのは同じである。
世の中は普段私たちが考えているほど単純にはできていない。もっと混沌としたものである。黒いものだと思ってそれをすべて取り除けば、真っ白になるかといえばそうではない。いままで白かった部分が黒くなってそれに取って代わるだけかもしれない。白い世界と黒い世界は厳密に分かれたものでもない。白と黒の間には境目のないグラデーションもある。
だから、相撲界の黒く見える部分を農薬の空中散布的な手法で一気に根絶しようとすれば、その後にやってくるのは〝沈黙の春〟である。大相撲を存続させようと思うならば、農薬的手法は使ってはならない。
もし大相撲がなくなっても、世の中は普通に回り続けるだろう。消滅して何カ月か経てば、ああ、そういえば相撲を毎場所NHKが放送していた時代もあったなという思い出話になってしまう。あれほどの隆盛を誇ったPRIDEでさえ、消滅してわずか数年でもう語られることすらなくなった。
時間は進む。誰が死のうと、何が無くなろうと、ただ淡々と進み続ける。社会とは残酷なものだ。すぐに忘れ去られる。
だが、もし大相撲がこのまま消滅したら、数百年にわたって力士たちが四股を踏んで鎮めてくれていた邪霊たちが暴れだし、日本文化に歴史上かつてない大地震が起きるのではないか。
それは〝日本沈没〟の前触れになるかもしれない。