七帝柔道で講道館ルールを勝ち上がった男たち

 昭和61年、京大柔道部の奇跡。

 昭和61年の第35回全日本学生柔道大会。

日本武道館は、42年大会以来19年ぶりにベスト16に進出した京大柔道部の快進撃に騒然となっていた。平均体重70.7kg。出場52校中最軽量の寝技集団は、いかにして全日本大会を勝ち上がっていったのか?

当時のメンバーに、松原隆一郎教授が聞いた!

 

松原 今回は、先月号本誌の増田俊也さんとの対談で触れた、昭和61年(1986年)の全日本学生柔道優勝大会でベスト16に入った京都大学のメンバーの方々に、ここ七徳堂にお集まりいただきました。

 強い選手が集まりにくい旧帝大ということに加え、平均体重70kgと軽量でありながら、七大ルールではない講道館ルールで強豪私立校と渡り合い、関西ブロックを突破して本戦も勝ち抜くという、現在では考えられないような快挙を成し遂げた皆さんです。本日は当時のお話や京大で特化したとおぼしき技術などをお教えいただきたいと思います。

 お越しいただいたのは、当時主将だった川村直司さんと同期の後藤啓さん、二つ下の中島研也さんです。このお三方は優勝大会を戦ったメンバーで、さらに当時のコーチ役の院生でメンバーをよく知る大泉啓一朗さん、一個下でマネージャーだった福永さんにもご同席いただきます。本日はよろしくお願いします。

 

一同 こちらこそよろしくお願いします。

 

松原 川村さんの世代は、ちょうど京大が当時、七大戦で10連覇をしている真っ最中でしたね。川村さんが主将だったときは何連覇目でしたか?

 

川村 6連覇目でした。

 

松原 増田さんは、『七帝柔道記』で、所属していた北大が低迷していた時期のことを中心に書いています。弱いチームでも毎日練習がきつくてしょうがないといった感じなのですが、今日、皆さんに技術を教えていただいた限りでは、その理路整然とした説明から、当時の京大は切磋琢磨しつつも楽しくやっていたのかなという印象を受けましたが。

 

川村 いや、僕らも大変きつかった記憶があります。ただ一回生のとき、7月の七大戦が終わるまで新入生はお客さん扱いでさほど練習はきつくないんです。しかも毎日練習が終わると先輩に食事や酒を奢っていただいて、何ていい所なんだろうと(笑)。

 

松原 それは北大も一緒だったようですね。

 

川村 しかし七大戦が終わり手のひらを返したように練習が厳しくなる(笑)。だから8月の夏の練習は苦しかったですね。合宿だと毎日6〜7時間の練習ですから、体がもたない。

 

松原 6、7時間ですか……。しかも毎日。入学した当初、七帝柔道独特の寝技には馴染めましたか。

 

後藤 高校時代に寝技はあまりやらないから最初は苦労しました。増田さんの小説と一緒だと思ったのは、小柄な白帯の先輩がいて、立ち技だと我々のほうが強いけど、寝技になるとこてんぱんにやられてしまうこと。どうして寝技がこんなに強いんだろうって面食らいましたよ。

松原 最初はあまり寝技を教えてもらえないのですか?

川村 いや、極め方から絞め方、守り方まで教えてもらえるんですけど、頭でわかっていてもやはり最初は太刀打ちできない。

 

後藤 高校の時に習ってないことばかりですからね。“浅野返し”や“高橋返し”“山本返し”とか、人の名前がついてる技なんて知りませんでしたし。

 

松原 一回生の夏合宿から厳しくなるということですが、それからはバンバン絞め技で落とされるような……。

 

川村 ええ、容赦なく落とされました(笑)。関節技に関しては「参った」してもいいのですが。

 

松原 東大で指導してくださる柏崎克彦先生も「参ったする暇があったら逃げる努力をしろ。ただ関節は怪我するから参ったしろ」と仰っています。七大学共通の文化ですね。

 

後藤 絞め方が上手い先輩だとあまり苦しむ暇なく落ちるんですが、下手な先輩にかかると呻き声だけが道場に響きわたって……。

 

中島 早く落としてくれって。逆に自ら絞まりにいったりしましたからね(笑)。

 

松原 じゃあ練習が楽しくなってくるのは、三回生ぐらいからなのですか。

 

川村 いや、楽しくなることはないですね。ただただ、ずっとつらい。三回生や四回生になればなったで試合における責任が発生する。だから余計に自分を追い込んでいってしまうんです。

 

後藤 贅沢な悩みですけど、当時京大は連覇中でした。OBは勝って当たり前という雰囲気だったし、自分たちの代で止めるわけにはいかないというプレッシャーは凄まじいものでした。

 

松原 そこから逃れるには、まず地力をつける。もう一つは徹底的に相手を調査して丸裸にする、という感じでしょうか。

 

川村 合宿所に大きなスクリーンがあったので、ご飯を食べながら皆でビデオを見て意見を言い合い、研究していましたね。

 

大泉 先ほど松原先生が「楽しそうに見える」と仰ってましたが、じつは川村の代は同期の仲が良くて全体的に明るかったんですよ。

 

川村 まあ、マゾですよね(笑)。今日の練習ではあんなことをされた、こんなことをされた、というのを同期と呑みながら楽しむカルチャーはありました。けど、当時は柔道をやっていて楽しい、という感覚はなかった。ホント、練習が終わったあとに飲みに行くビールが楽しみなぐらいで。

 

大泉 けど、その連帯感が全日本でベスト16までいけた原動力になっているはず。ホント、お前ら明るかったよな。

 

川村 一回生のときのことなんですけど、普通稽古前って重い雰囲気で無口になるじゃないですか。ところが僕らは重くならず笑っていたんです。そしたら先輩が、「お前ら楽しそうだから、もっと稽古を厳しくしなきゃいけないな」って(苦笑)。

 

松原 やはり格闘技は悲壮感ばかりでなく明るい感じがあるほうがいいですね。七大学ではあり得ない話なのですが、東大は専用道場がありません。だから稽古後にゆっくり反復もできない。そこで去年からキャプテンの提案で出稽古漬けになっているんですが、それでもなかなか結果が出なかった。悲壮になりそうなところで、それでも暗さがなかったのは救いでした。

 

川村 僕らも一緒でしたよ。

 

松原 でも、やはりあれだけ技術を整理できていたら楽しかったんじゃないですか。研究会はありましたか?

 

福永 毎日、練習後30分ぐらい技の研究に当てていました。キャプテンが当り前の技を毎日一つか二つ教えるという感じでした。川村さんが主将のときは、たしかにきちっと技を整理して教えていましたね。

 

中島 抑え方だけでなく、返し方も一通りやってましたね。

 

大泉 だから皆、できるできない関係なく同じ技を覚えて共有しているんです。

 

松原 それは1年生だけではなく、全員でやってみるのですか?

 

中島 そうです。先輩と後輩で組んでやることが多かったですね。

 

福永 出稽古の人も一緒にやる。システマチックではあるんだけど、練習後だから体力の消耗が激しく、これはこれできつかった覚えがあります。

 

川村 研究で一通りやった技の中から各自得意技を選んでいくような感じでしたね。

 

福永 白帯で入った人は、俺はこれが向いている、と思ったらそればっかり練習して得意技にしていました。

 

松原 なるほど。皆さんは全日本で結果を出し、国際ルールにも対応できることを示されたわけですが、今の七大戦はゆっくり攻めるのが主流です。そのせいか、東大チームが国際ルールの試合で寝技をやろうとしてもゆっくりしていて待てがかかってしまう。東大は昨年の七大戦で準優勝をしたのですが、国際ルールへの対応が難しく、直前まで連敗して、調整に頭を悩ませていました。皆さんはどのように七大ルールと国際ルールの違いを意識し、練習してきたのでしょうか。

 

川村 国際ルールは僕らにしてみれば講道館ルールということになるわけですが、たしかに講道館ルールは「待て」があるので寝技に行くなら速く取らなければいけません。しかし僕たちは、みんな身体が小さかったこともあり、いずれにせよスピーディーに組手をやる必要があったので、七大ルールと講道館ルールを分けずに練習していたんです。

 

松原 ええっ、そうだったんですか?

 

川村 七大ルールだろうが、講道館ルールでやろうが、基本的には全部一緒の技。ただ、七大戦のときは「待て」がかからないので、ちょっと時間のかかる絞めを狙ったりする程度ですね。それでも、なるべく全力で速く仕掛けるようにしています。

 

松原 七大戦であっても講道館ルールのように速く仕掛ける。抜いたら、次の相手に対しても速く仕掛ける、と。

 

川村 ええ。我々のときは確実に抜ける選手はいなかったんですけど、誰もが抜き役というつもりでやっていたし、そうじゃないと勝てませんでした。

 

松原 当時の京大には、完全な分け役はいなかったのですか?タックルガメで足にしがみつき粘るといった白帯上がりの選手は。

 

川村 我々の学年は9人いたんですが、白帯から始めたのは3人。そのうちの2人は4回生になると相手によっては取れるようになりました。1人は二回生から入部し身体が小さかったので、引き分けることを主体にやっていましたね。

 

松原 東大は、抜き役と分け役がやっと明確になったところで、まだまだ両者が分離している状況です。川村さんの世代は白帯から入っても分け役が取れるところまでいけたわけですね。練習していく上でなにかコツがあったのでしょうか。

 

川村 やはり稽古量ですよね。こんなこと言ったら怒られるかもしれないけど、当時は柔道しかやっていませんでした(笑)。おそらく強豪私大の人たちと比べても練習量というか、道衣を着ている時間は圧倒的に長かったと思います。

 

松原 藤猪省太先生が指導する京都産業大学に出稽古に行っていたと聞いていますが、そこには白帯も連れて行ったんですか?

 

川村 もちろん連れて行きましたよ。あと合宿も多くて、秋なんて1ヶ月のうち2週間やってました。合宿だと先ほども言ったように1日6〜7時間の練習。普段の日も午後3時から練習です。授業は4時までなんですけど、稽古に遅れると先輩に怒られるので授業を抜け出して道場へ。まあ、おおらかないい時代でした。

 

後藤 白帯だった人が取れるようになるのは、足が利くようになってからですね。下から攻めて返せるようになると、極めたり抜けるようになる。

 

松原 足が利く選手は現在の七大学全体を見ても結構いると思うのですが、その先の取れるところまで到達するとなると、やはり時間と稽古量が必要だと。

 

川村 そうでしょうね。当時は、白帯で始めて三回生ぐらいになると一回生の黒帯相手に取れるようになりました。あと足が利く選手は、下から絞めができるようになります。前三角とか引っ掛け絞めとか。それができるようになると、相手は出にくくなるし、返しへも行きやすくなる。

 

松原 それにしても京大が七大ルール、講道館ルールの区別なく同じ練習をしていたとは驚きです。東大も柏崎先生が来られてからは「二つのルールを分けて考えるのはおかしい。同じようにやればいいじゃないか」という指導を受けているのですが、なかなかうまくいきません。当時の京大はすでにそれをやっていたわけですね。

 

後藤 当時、東大がルールについて問題提起していたじゃないですか。「七大ルールばかりやっていたら全日本では通用しない」と立ち技へ傾倒していった。それを聞いて我々京大は燃えるものがあったんです。七大戦も勝つけど、講道館ルールでも勝つんだって。だから七大戦でしか通用しない技は使わないというか、練習ではどちらでも使える技を意識してやっていました。

 あと私たちが二回生か三回生の頃、こちらが引き込んだ際に足技で一本取られるケースが結構あったんです。結果、講道館ルールでも通用する寝技の引き込み方を覚えないと七大戦でも危ないぞという結論に至りました。そこで単純に引き込む感じではなく横巴投げや横捨て身で入るなど工夫することになりました。

 

松原 なるほど。それも柏崎先生の考えと同じですね。引き込むだけでなく、巴に行けと仰ってる。横巴投げは藤猪先生から指導を受けたのですか。

 

川村 ええ。講道館ルールでやる際、普通の巴だと、大きな相手だと腰が折れず引き込み注意を取られてしまう可能性があります。そこで横巴なら、あわよくば投げられるし、崩れてもすぐに立てるので注意される可能性が少ない。

 

福永 藤猪先生は「相手を浮かすように、力を抜くな」と仰ってました。駄目ならばすぐ立て、とも。

 

大泉 面白いことに藤猪先生は京大の師範でも何でもないんですよ。けど京大生に熱心に教えていたというのは、たぶん川村たちに好意をもっていたということでしょう。京大生が熱心に出稽古に来て、ボロボロにやられながらも教えを乞う。そんな姿勢に藤猪先生も打たれたんじゃないかな。

 

松原 興味深いですね。藤猪先生は寝技も強い方ですが、そもそもの印象は立ち技の人。京大の皆さんは、京産大に組み手を習いに行ったのかと思っていました。

 

川村 寝技もやっていましたし、身体が大きくて強い相手とやるのは勉強になりました。僕たちの基本は守りですから、どこまで攻めさせても大丈夫かなって、匙加減がわかるようになりました。

 
後藤 ただ京産大の人はしつこく寝技にはこなかったよね。嫌がって(笑)。

松原 現在では、東北大が突出して七大戦特有の戦い方に特化していて、国際ルールでもそれを貫けばいいと思っている風があります。国際ルールでの勝ちはこだわらない節さえあって、無理をして黒帯の強い選手を入部させるよりも、白帯を育てて勝つというチーム作りをしています。実際それで東北大は時代を作ってきましたし、その徹底ぶりはたいしたものです。全日本大会に出場された京大のメンバーは高校の時点で黒帯でしたよね。東北大のような発想についてどう見ておられますか?

 

川村 各大学の考え方があるでしょうから僕は自由でいいと思いますよ。自由に発想して、独自の戦い方を探すのが七大学の柔道だと思います。

 

松原 なるほど。それと東大の部員たちが迷ってきたことの一つに、背負い投げをどうするかがあります。高校まで柔道をやっていた身体の大きくない学生は、基本的に背負いが武器である場合が多い。しかし七大ルールで背負いを使うとバックを取られ形勢不利になってしまうケースがしばしば見られます。

 そこで中学時代に全国大会へ出場したほどの選手でも、七大ルールで戦うときには背負いを封印したことがありました。一方、それでも使い続ける選手もいます。鉄則はあるのかないのか。皆さんは、七大ルールと国際ルールで背負いに関して使い分けておられたのでしょうか。講道館ルールの全国大会では背負いを連発しておられますよね。

 

川村 普通にやっていましたよ。

 

後藤 背負いは逆に返されないから安全だって気持ちのほうが強かったですね。

 

松原 返されない、とは?

 

後藤 自分が亀になったとしてもすぐさま正対する練習は普段からしているので、国際ルールだと自分で寝技に行った方が有利だと思ったら背負いから潰れて相手が上に乗ってきたらすぐ正対して攻めていました。

 

福永 後ろにつかれるのが嫌だって人はあまりいなかったような気がします。

 

中島 講道館ルールならば、そのまま寝技に来てくれますからね。

 


松原 講道館ルールならばわかるのですが、七大ルールの場合ではどうでしょう。

 

 

川村 七大戦で背負いしていたのは、うちだと山崎(正史)という同期くらいですね。

 

大泉 うん。山崎のような寝技に突出した選手しか背負いは使わなかったな。

 

川村 とはいえ我々としては、七大戦で背負いを使うことを恐がっていたという感じでもなかった。

 

松原 七大戦で背負いを武器にするためには、バックを取られてもすぐ正対に戻せるほど寝技の技術が高くなければいけないということですか。

 

後藤 背負いよりも、巴投げに行ったタイミングで足かけられて一本負けっていうパターンのほうが恐かった。

 

川村 うん、そっちのほうが合わされやすかったね。

 

後藤 審判によっては足を刈られていなくても、ドーンと背中からいくと一本取られてしまう。当時の東大は、そういうのが得意だったんですよ。

 

松原 巴だと足技で合わされてしまうと。ではもうひとつ、ブラジリアン柔術(BJJ)については皆さんどのようにお考えですか。BJJの技術は七大戦ルールのなかで使えたり使えなかったりして、取捨選択期に入ってきている印象です。東京には柔術をやる人が多く、周りに七大ルールをやっている学生がいないので東大生も結構交流があります。

 

川村 ブラジリアン柔術はやったことがないので詳しいことはわからないのですが、絞めとか関節を見るかぎり勉強にはなりますね。アキレス腱とか膝固めは使えないけど、肘関節や手首の返しとか、あるいは前三角なども多用しますし、同じような感じだなと思う部分は結構あります。

 

後藤 他の競技といえば僕らの時代はよくレスリングをやったよね。他の大学のレスリング部に出稽古に行くんです。レスリングの技術はネルソンとか飛行機投げとか結構使えるんですよ。

 

松原 ああ、それで後藤さんはタックルが速かったんですね。全日本大会でも使っていましたよね。

 

後藤 いえいえ。けどタックルはかなり練習しましたね。あとレスリングの技術でいうと股裂き返しとか。

 

川村 やっぱ七大ルールっていうのは、いろんな技が使えるところに醍醐味があると思うんです。レスリングしかり、あと京産大でよくやったのがモンゴル相撲。太ももに紐を巻き付け、帯を巻いてお互いにそれらを組み合ったところから始めるわけですが、身体を合わせた状態で大内刈りを仕掛けたりするので体幹が強くなる。

 

松原 密着してからの大内は力が入りますね。あれはきつい。

 

川村 七大戦ルールは、いろんな技を応用できるし、本当、自由度が高い魅力的な戦いだと思います。

 

後藤 そういえば昔、前褌を持つように帯を持って投げようとした人がいましたよ。本当、相撲の前みつみたいに(笑)。

 

川村 まさに柔道のフリースタイル。

 

松原 現在はズボンを掴むことも禁止になってしまいましたが、ひょっとしたら今後、七大戦のなかでしか残っていかない講道館の技術というのもあるのかもしれません。そういう意味で、七大戦は後世に残していくべきものだと改めて思います。全日本大会に戻ってお聞きしたいのですが、何を目標にしておられたのでしょうか。

 

川村 まずは全日本に出場することが目標でした。関西の予選で勝ち、出場が決まってからは、えーと……。

 

中島 まずは初戦突破ですかね。

 

川村 うん、そういう話はしましたね。出場するのはいいけど、一回戦で負けたら話になりません。そこから先は、行けるところまで行くしかないと。

 

松原 レベルの高い大会です。大きな選手への対策など考え直したりしたんですか?

 

川村 いえ、身体が小さな選手ばかりだったので、一回生のときから大きいやつとどう戦うかは揺るぎない共通のテーマでした。4年間絶えず、そればかりずっと考えてきたので、戦い方はおのずと決まっています。

 

松原 とにかく一回戦を突破しよう、と。

 

川村 まあ京大という名前は嫌でも注目を浴びてしまうので、恥ずかしくない試合をしなければいけない。ただ戦術としては先ほども言ったように、講道館ルールは「待て」が早いから、ならば速く行ける技で行こうと。本当、その程度ですよ。

 

松原 七大戦で使うゆっくりの技に対して、速い技も作っておくといった感じですか。

 

川村 いえ、作っておくというか、どの技を仕掛ければどれだけ時間がかかるかわかっているので、状況次第で使える技を見究めて攻める、ということです。

 

松原 頭の中に分類のマップがあって、速く行ける組み合わせを選び、攻めると。

 

中島 例えば七大ルールの場合は「待て」がないので最初、じっくり絞め技を狙って、そのうちに相手の脇が空いて別の技へと展開していく。でも講道館ルールの場合はそんな時間はないので、最初の寝技で絞めを見せておいて「待て」がかかったら、次の寝技で絞めと見せかけて脇をとったりするんです。

 

松原 なるほど。「待て」込みで伏線を張っておくわけですね。

 

中島 ええ。あと七大ルールは一つ固めたら次の箇所、といったように逃がさないように大事に攻めますけど、講道館ルールの場合、荒っぽいけど、どこか1箇所決めたらそのまま一気に決めに行く。それに寝技で体制が不利になっても取られない自信はあるので、頑張れば「待て」が掛かる。

 七大戦の場合は、一度不利な体勢に持ち込まれてしまうと形勢を逆転するのが難しいのでどうしても慎重になってしまう。けど講道館ルールのときはどんどん行ってしまい「待て」が掛かったら、また次のチャンスで行こうと切り替える。とにかく「待て」が掛からないように、寝技になったら止まらず攻めに攻める。

 

松原 攻めて動くのがセオリーだと。では当時の試合ですが、私の手元に浪速佳光さんの大会観戦記があります。大会総括で「完全にマスターしたコースで『一本』を取り切ること」が必要とあります。勝ちパターンを持っていなければならないということで、勝った人間はそれができていた、と。しかしパワーと当たりがまだまだ不足していると反省も述べておられます。

 

福永 ベスト16は運もあったと思いますが、選手側からみれば結構、頑張ったなという感じだったんです。しかし、戦評はすごく厳しい。

 

松原 普段、柔らかい柔道をやっているからパワーが不足している、みたいなことが書かれていますが、この“柔らかい”とはどういうことでしょうか?

 

川村 たぶん当たりの話をされていると思うんですけど、私立の強豪選手って寝技であってもガッて当たりが強いんですよ。ところが我々のような七大生はフワッとした感じで抑えていく。そのへんが全然違うと指摘していると思います。

 

松原 抑え方の圧力のことですか。そこで1回戦の岡山理科大との対戦ですが、次鋒の山崎さんが横四方で一本を取って

先行、その後、中堅の後藤さんが注意を取られ負け。結果は1-1の内容勝ちでした。

 

後藤 僕は足を狙い過ぎて注意をもらってしまった。

 

松原 当時からタックル系はあまりやってはいけないという風潮があったのですか?

 

後藤 はい。あまりしつこくやると注意されていました。

 

川村 僕は大将だったんですけど、1-1の内容差で出番が来たので、ここは絶対に反則なく引き分けようと考えていました。

 

松原 映像では、川村さんは内股から脇固めに移行したり、実にしつこい柔道をしています。

 

川村 相手が100kg超えの選手で大きかったのを覚えています。脇固めに行ったのは無意識ですね。

 

松原 攻めつつも、とにかく分けようという覚悟が見てとれますね。続く2回戦の福岡工大との試合は4-0の圧勝でした。

 

川村 大将の僕に出番が回ってきたときはすでに3-0で勝ちが決まっていたので、この試合はリラックスしてやれました。

後藤 私は三将だったんですが、相手選手が小柄でここは絶対に取らないと駄目だという気持ちで戦いました。結果、勝てて良かったです。

 

松原 タックルで倒してから足をひっぱり場内に引きずり込んで仕留めた試合ですね。そして3回戦は優勝候補の国士舘です。0-6の大敗を喫しましたが、全体の印象として国士舘はアドバンテージのある立ち技にこだわらず、あえて寝技にもつきあって京大を潰しに来ました。それと気になったのが奥襟を取られて試合をコントロールされてしまったことです。

 

後藤 関西にも強い大学がたくさんありましたけど……、やはり国士舘はレベルが一段違いましたね。

 

松原 後藤さんは寝技で横絞めを食らいましたが……。

 

後藤 結局横絞めは入らず、払い巻込みで敗れたわけですが、あのとき国士舘の監督は斉藤(仁)先生だったんですよ。おそらく京大なんて勝った当たり前だから立ち技じゃなく寝技で行けって指示があったと思うんです。そうじゃなければあんなにしつこく寝技で攻めてこなかったはずです。

 

川村 国士舘は強かったよね。松原先生が仰るように奥襟が切れない。

 

松原 それ以前の試合では釣り手をずらしていたのですが。副将の児嶋さんはカニ挟みを連発したり、跳び十字をやったりするんですけど、最後は大外刈りで投げられた。やれることはすべてやっているのですが、最後は吹っ飛ばされてしまう。時間とともにスタミナを消耗していったのでしょうか。

 

後藤 僕は一本負けだから、体力の消耗は感じとれませんでしたね。

 

松原 でも、あの横絞めをこらえたのは凄いねばりです。やれることが尽きたところで一本負けしているように見えますね。

 

後藤 そうかもしれません。やっぱり相手がでかいと疲れますよ。

 

松原 向こうが寝技で来たことで厳しい局面に立たされたと思いましたか?

 

川村 いや、それはなかったですね。スコアは0-6ですが、寝技で取られたのは2本だけですからね。

 

松原 ということは、岡山理大との試合は相手が寝技で来ないから苦戦した。京大としては寝技にきてくれたほうがありがたいということですか。

 

川村 そうですね。

 

松原 たとえ巨漢揃いの国士舘でも?

 

後藤 ええ、与しやすいですよ。

 

松原 小柄な後藤さんが巨漢に首を締め上げられて大変な目にあっているように見えるけど、実は寝技のほうが冷静でいられるというわけですか。

 

川村 まあ、僕らは普段から大変な目にあってますからね(笑)。

 

後藤 当時の我々のプライドは、相手がいくら一流選手であろうと寝技で負けちゃいかん、というのがあったんです。たとえあの山下泰裕選手が相手であっても亀を取られてはいけないって。先輩たちからそうずっと言われてきたんです。

 

松原 それは素晴らしい。七大生のプライドを示す言葉ですね。

 では最後に、皆さんは社会人になられてずいぶん時間が経ちましたが、あの頃の闘いは実人生でどのように生きていますか。

 

川村 やはり“自信”ですよね。例えばたくさん勉強してきた方や運動を頑張ってきた方と仕事、プライベートでお話しする機会が多いのですが、非常に気持ちが分かるし、会話しやすいんです。結果それが公私ともにいい方向に繋がっていき、人脈や縁が広がっていく。すぐ目に見えるものではないんですけど、あの時の経験が自分の人生にとってプラスになっていることは確かです。

 

松原隆一郎 Matsubara Ryuichiro
1956年、兵庫県神戸市生まれ。東京大学工学部都市工学科卒業。同大学院経済学研究科博士課程修了。現在、同大学院総合文化研究科教授。専攻は社会経済学、相関社会科学。嘉納治五郎が創始した灘中学・高校の柔道部出身。33歳で大道塾に入門し、現在は国際空道連盟大道塾四段。同塾ビジネスマンクラス師範代。著作は『格闘技としての同時代論争』『思考する格闘技』『武道を生きる』『ケインズとハイエク—貨幣と市場への問い』など多数。 


  (『ゴング格闘技』2013年7月号「昭和61年、京大柔道部ベスト16の奇跡。」より)