作家 増田俊也オフィシャルサイト
松原 さて今回は、先日『七帝柔道記』を上梓された増田俊也さんと、新著をめぐってお話しさせていただきます。
増田 よろしくお願いします。
松原 『七帝柔道記』は各方面で話題になっていますが、それでもまさか朝日新聞紙上で“七帝柔道”という文字を見る日が来るとは思っていませんでした。今年も6月15日、16日に七大戦が開催されますし、本の評判も良く、盛り上がりに乗じて語るのは今しかないな、と。
増田 時期的にもこの本は、僕から旧帝大の七校の新入生たちへの壮大な勧誘文でもあります。読んで興味をもった新入生は、ぜひ道場へ見学に行って欲しい。絶対に後悔はさせません。高校で立技をやってきた人間は寝技を強化することでその立技をより活かせるようになるし、白帯からでも強くなれるのが七帝柔道の寝技です。中井祐樹君も白帯から始めて超弩級になっています。
松原 ご存知のように現在、柔道界は危機的な状況にあります。しかし本来、柔道は素晴らしい文化であり、後世に正しく残していくべき日本の伝統でもあります。今回は『七帝柔道記』を通じ、柔道の持つ“美しい部分”について語ろうと思います。
現在の柔道界の根本的な問題点に、“強い者が支配する”ということがあります。全日本大会と世界選手権を制し、そしてオリンピックで金メダルを獲得し三冠を達成したら、その強者には誰も反論ができない。また今回問題になったきっかけは女性柔道家たちの声でしたが、男性と女性の間にも格差や差別があり、とにかく強い者が偉いという、知的でも社会常識もない団体になってしまっている。すべての物差しが競技で強いか弱いかなんです。
一方、七帝柔道では、15人の団体戦で引き込みや専守防衛が認められるため、弱者も強者も大学の勝利に向けて戦うことができるルールになっています。ここに美しさの根拠があると思えますね。
増田 僕もそう思います。
松原 一部の強者が権力を支配する今の柔道界とのコントラストで言えば、増田さんが北大で体験されたものは弱者たちの物語で、そんな彼らが七帝柔道を通し自分なりに青春を燃やすというストーリーですね。
増田 そうですね。強いことは素晴らしいけど、弱いことも素晴らしい。僕が北大柔道部、あるいは七帝柔道から学んだことは結局そこに収斂していくと思うんです。いろんな立場の人たちがいるけど、それぞれ役割がある。生きていること自体が素晴らしいということを読者に感じてしょしかった。
松原 なるほど。七帝柔道講道館柔道の関係を語る上でひとつのポイントは、嘉納治五郎師範が、七帝柔道の源流だといわれている高専柔道については否定的だったということです。
増田 寝技の柔道が学生の間で盛り上がり過ぎるのはよくないということでしたね。
松原 嘉納先生の理屈は、団体戦に熱狂すると守りに走る試合が増えてよくない、堂々とリスクを賭けて攻撃せよ、ということでした。嘉納師範の理念から高専柔道が離れていたのは事実です。しかし、私が東大柔道部部長として七帝戦に関わっていると、そう割り切れない部分もあるんです。増田さんが仰るように弱者でも戦える魅力が七帝柔道にはあります。このルールでは、努力や工夫次第で弱者が強い選手と渡り合う実感を得ることができます。増田さんは嘉納先生の批判に反論はありますか?
増田 反論はないんですけど、嘉納先生がもしまだ今でも生きておられて現状を見たら、高専柔道もいいじゃないか、七帝柔道もありじゃないかと思ってくれるような気がするんです。五輪至上主義に走った全柔連が社会的に叩かれて散々たる現状を鑑みて、ある意味、七帝柔道こそ自分の理想を継承してくれたんじゃないかと思うかもしれない。またグレイシー柔術の登場により、バーリトゥードは最終的に寝技に収斂していくとお気づきになったと思います。個人的にも一連の柔道問題が起こってからというもの、七帝柔道がこれまでとは別の輝きを持ってきたような気がするんです。
松原 まあ、嘉納師範の想定する実戦は一対一のバーリトゥードではなく、一対多のストリートの喧嘩だったので、寝技を長く続けると仲間がやってきて踏みつけられるというのが、高専柔道が実戦的でないという批判の内容ではあります。
ただ、嘉納先生が生きていた時代に比べれば柔道人口は減ったかもしれませんが、まさかここまで競技柔道における専門家層が厚くなるとは思っておられなかったでしょうね。東京近郊の名門大学に推薦で入る柔道選手はプロみたいなものです。そして、そんなプロみたいな選手たちは弱い選手に対しいじめめいた稽古や試合をする。嘉納師範の言う“修心”、人間形成に反します。
増田 中途半端に強いレベルの選手がそういうことをするんですよ(笑)。
松原 嘉納先生は競技に対しても一歩距離を置いてましたが、講道館ルールで力に差があるときに、モラルに反するような行為が見られる状況は想像されなかったでしょうね。北海道ではどうでしたか? 国際ルールである7人制の団体戦などで強豪大学から“オマエら出てくるなよ”といった視線を受けたりしませんでしたか。
増田 ありましたよ。道内の大学の合同乱取りとか研修会で一緒になるんですけど、まあ最初から眼中にないといった態度で露骨にゴミ扱いですよ。屈辱でしたね。
松原 本当に眼中にないならもっと優しくしてくれてもいいのに(笑)。
増田 まったくです(笑)。
国際ルールの試合で、50㎏以上の体重差がある重量級相手に得意の脇固めを狙う増田俊也(手前)。国際ルールや講道館ルールで戦うために、七帝戦士たちはさまざまな技を研究する。
松原 昔の話ですが、東大が某大学に出稽古に行くたびに、耳元で“殺す”と囁かれたそうです。もっとも、東大にも“お前こそ殺す”と言い返す豪の者がいたそうですが。増田さんたちもそんな感じでしたか?
増田 今はもうないのですが道都短大という強豪校があって、当時のそこの選手は本当に酷かった。試合のときは審判が守ってくれるし、観衆も見ているからこちらも思いきった攻めができるけど、合同練習で乱取りするときは目茶苦茶でしたよ。だから大会で道短と当ったときは、脇固めにいったり、ケンカ腰の試合になりました。
松原 脇固めは“お前こそ殺す”と宣言するような技だからなぁ。増田さんは本の中でもずいぶん喧嘩を売ってますよね(笑)。
増田 いえいえ、あくまでも良識の範囲でやっています(笑)。まともに立技で組み合ったら一発で投げられてしまいますからね。そういうなかで自分たちで必死に研究しました。50、60kgという体重差があって実績も違う強豪私大勢相手に、どうやって戦うか、そういうことを考えながら技を研究できるのも七帝柔道の素晴らしい土壌です。七帝ルールと国際ルール、両方の試合に出ることによって、さまざまな発想が生まれ、新技も生まれる。いま考えるとブラジリアン柔術家と柔道家の異種格闘技戦のようなものだった気がします。SRT(遠藤返し)なんかも京大から生まれて、今では五輪の舞台でも使われるようになりました。
松原 まあ相手からしたら“俺たちはプロとして柔道一本でやっているのに、国立大を出て大手企業に入る逃げ道のある人間がどうして俺たちの聖域に入ってくるんだ?”という意識があるのでしょうね。私もプロの格闘家と練習したとき、何度か殺気を感じるほど追い込まれましたからね。といってもプロはそういう気持ちがないと試合で勝てないので、仕方ありませんが。増田さんたちも、自分たちだって身体張っているんだって気持ちだったでしょうね。
増田 もちろんです。とくに2年目の時は、大学団体日本一を決める7人制の大会である全日本学生柔道優勝大会で日本武道館へ行けるんじゃないかと思っていました。まあ結局、北海道予選で道短に負けて全国へは行けませんでしたが、普段の乱取りで滅茶苦茶にしてくる強豪私大に負けたくないという気持ちは強かった。寝技を駆使して強豪私大に挑む、あの優勝大会の死闘は『七帝柔道記』の読みどころのひとつですね。僕の代の10年ぐらい前の先輩たちは、武道館へ進出しても強豪私大と渡り合っていたのに、どうして自分たちはこんなに弱いのかと考えてばかりいましたね。
松原 推薦のある私大と違って、基本的に国公立である七大は厳しい受験勉強をしなければ入れません。私から見ると、入学してきた学生たちは、受験勉強という特殊な環境にいたせいか個人主義の人間が多い。七帝柔道には、受験勉強によってため込んでしまった“悪”を除染する効果がある。柔道部では団体に尽くすことを学び、多少不条理であっても先輩の言いつけを聞いていたら不条理なもの自体を楽しむ余裕ができたり。受験勉強で見失ってしまった社会性や、目先では非合理に見えようと遠い将来に役立つことを七帝柔道によって学べると思います。とくに東大生は勉強の中での強者だと思うんですが、得てして強者は知的でない。全く空気が読めなかったり、社会性が欠落したり。それは講道館柔道の強者と同じです。そこで七帝柔道を4年間やることで禊を終えて、社会に出ていってもらいたい。増田さんは柔道部における個人と集団の関係をどのように考えましたか?
増田 この小説のもう一つのテーマは“集団”と“個”だと思うんです。学校や会社などいろいろな組織がありますが、団体に属している良さもあれば、個の良さもあるから人は個であろうとする。酒井順子さんが東京新聞の書評欄でまさに集団に属することの良さについて書いていましたが、そういったことを七大学の柔道部員は乱取り中に感じているんじゃないでしょうか。
松原 乱取り中に?
増田 作家のC.W.ニコルさんは松濤館空手をやっていて、空手の型を『ムービング禅』と書いていました。僕はなるほどと思いました。寝技乱取りしている時って頭の中、つまり脳がすごく活性化されている感覚があったんです。寝技乱取りをしている何時間かは、頭の中を真っ白にしているようですごく哲学的なことを考えている。けれど引退した今は、あの哲学的な時間が減ってしまった。本当にあのときは禅をやっていたかのように、集団や個のありかたについて深く考えていました。
松原 それは知的なものを追求する面が七帝柔道の中に色濃いということですね。立ち技が強い人は、頭を使うより前に見ただけで色んな技ができてしまう。天賦の才というやつで、いちいち言葉に換える必要がない。一方、寝技には技術を言葉に置き換えたり、それによって理解できたりする面がある。後輩に伝えるためにも言葉によって普遍化するという作業が必要です。七帝柔道は、立ち技主体の講道館柔道よりも言葉に置き換えが可能ですね。
増田 それは感じますね。先ほども言いましたが、昨今の柔道界のごたごたを反面教師に七帝柔道が輝きを放ち、別方向へ進化した柔道の理想郷みたいな形でマスコミに採り上げられているような気がします。
松原 ただ、『七帝柔道記』で書かれている世界は今の七大戦とは雰囲気が違う。あんないじめのような舌足らずの稽古をやっていたら、誰も柔道部に入ってくれませんよ(笑)。今の東大も三部練とかは普通のことだし強豪校への出稽古も毎週やっているので、この本の北大と厳しさは変わらない。でも、知的に納得しないでキツいだけの稽古を課されると、続かないと思う。
増田 そこはきちんとアナウンスしないといけないですね。30年前の話なので誤解しないでもらいたいですね。シゴキのような練習も、新入生の通過儀礼だった“カンノヨウセイ”も無くなりました。酒に関しても今年のOB会誌『北大柔道』でOB会長が書いていましたが、たとえ本人が飲みたいといっても二十歳未満の学生に絶対に酒を飲ませるなということを徹底しています。
松原 あの一文は、今年は七大学全体で回覧しました。
増田 やっぱり酒は、せっかくつけた筋肉を落としてしまいますし、理不尽な酒から得るモノはありません。また練習も目的あって然りなので、稽古中に絞め落とすことも最近はないと思います。試合に関しては本人の判断に任せているし、参ったをしたら絶対に駄目だと明言している人は昔からいません。そういったあらゆる強制がないところが七大学のいいところだと思います。すべては自分で決めるんです。大人として選手を扱うんですね、七大学は。
松原 ただ、絞めるほうは相手が参ったしない限り絞め続けますから、落ちることもある。東大では、“試合では参ったをするぐらいの暇があるなら逃げる努力をせよ”という風に教えられています。“試合で落ちるのは怖くないし仕方ない”ということです。まあ関節に関しては、極まる前に集中すべきで、極まったらさっさと参ったをするしかありませんが。
増田 やはり松原先生が仰るように、旧帝大生たちの禊なんでしょうね。おそらく中学高校で学業のトップクラスにいた学生って、成績や知性をもって知らないうちに他人を傷つけていると思うんです。しかし七大学に入学して、柔道部に入ると実は自分はとんでもなく弱いことに気づく。リアルな肉体をもって示され、そのとき人は考え直すわけです。実はさまざまなジャンルにとんでもなく才能を持った人がたくさんいて、自分はそんなにたいした人間じゃない、と。そう考え直すことが禊であり、教育なんじゃないですかね。
松原 目先のことを合理的に求める学者って結構いるんですけど、そういう人に限って長い目で見ると非合理的な行動を取っている。増田さんは本の中で短期的に見れば非合理的なことをやっているように感じるけれど、長い目で見るとそこには仲間と過ごした素晴らしい思い出がある。
増田 そうですね。非合理なことをしなければ気づかなかったことや得られなかったことは多々ありました。
松原 あと、物語の中で興味深かったのが、増田さんが英語の授業で教授に食ってかかるシーンです。
増田 いやあ、もうこれ二十歳の頃のことなんで……スミマセン(苦笑)。
松原 いや、あれは立派な意見ですよ。私は常々、大学に入ってから受験勉強の延長のような授業を強制するのは良くないと思っているんです。文学の文章を英語で教える授業を理科系の学生に強制するのは、先生の趣味のおしつけでしかない。いじめですね。学問が嫌いになるだけです。まさに増田さんはそのことを言っていた。
増田 教養部でも生物や化学や物理をやるじゃないですか。あれ、ほとんど受験勉強の延長ですよね。英語に関しても基礎はできているんですから……。
松原 英語という科目が必修なのは構わないんですけど、人によっては論文を読むための英語を学びたい人、書くための英語を学びたい人、英会話の能力を高めたりTOEFLで点を取りたい人もいる。どんな英語を学ぶのか選択制にすればいいのに、文学という大学の一専門分野を全員に強要するのはおかしい。実際に東大でも英語はその方向に改革されています。増田さんはそこをきちんと指摘していました。まあ居眠りしていた件からの展開でしたが(笑)。
増田 お恥ずかしい……(笑)。
松原 学生が五月病になるひとつの大きな理由はこれなんです。大学に入ったのに受験勉強の延長をやらされてしまうとガックリくる。しかし七帝柔道や大学でしか味わえない勉学の目的を持つことができれば、五月病を避けることができるかも。
増田 たぶん4年間で英語力が一番高いのは入学時じゃないでしょうか。興味がない英語のテキストを使うからモチベーションが落ちて、そこからだんだんと能力が落ちてくる。最初から専門性の高い英語を読ませてもらったほうが楽しい。専門用語も覚えられますし。たとえば工学系なら建築学の歴史の英語テキストとか、生物系ならイルカの生態学の英語テキストとか。
松原 期待に胸ふくらませて大学に入って、結局受験勉強の続きをやらされるのかとがっかりすれば、モチベーションが落ちるだけ。あの英語の話はいい。
増田 ありがとうございます。あらためて大学時代のことを思うと、七大学っていうのは現役で入ってくる人もいれば、一浪、二浪、三浪もいるわけで、柔道のレベルもインターハイに出た人から白帯まで雑多な人たちが混じり合っているんですよね。そこに豊かさや、新たな繋がりが生まれる。
松原 多様性ということですね。柔道の強い学校は、強者しかいませんから。
増田 強豪大はほとんどが推薦、現役で入ってくるわけです。100人以上の部員から7人のレギュラーに選ばれなければならない。蹴落としあいです。誰かが怪我をすれば喜ぶような人も出てくる。でも七帝戦は20人くらいの部員から15人を選ぶ。互いに手を差し伸べあい、強者と弱者が互いの立場を忖度し、助け合う。社会性からいったら強豪大学より優れた柔道をやっているといえます。
松原 どうしようもなく運動神経の悪い人間だっているんだと。
増田 腕立て伏せが5回位しかできない新入生も旧帝大には本当にいますからね。けど、そこから4年間かけて成長していくのが素晴らしいんですよ。4年生になる頃にはそういう新入生がボディビルダーのような体になって千回の腕立て伏せをやるようになったりする。僕、七帝戦の応援に行くと4年生の顔を見るのが好きなんです。みんな凛々しい横顔で。そういえば最近、僕が社会に出て初めて、4年生たちと同じ表情を持つ人たちを見たんです。自衛隊駐屯地からトラックで東北の地震被災地へ向かう若者たちでした。二十歳ぐらい。彼らの横顔は、七大の4年生と一緒でした。人のためにという使命感がにじみ出ていて、その凛々しさに涙が出ました。
松原 東日本大震災では、戦後から長い間、存在じたいが悪であると言われてきた自衛隊の隊員が、初めて正当に使命を遂行し、国民から評価されました。最前線に立つ彼らは神々しいまでに凛々しかったですね。
しかし七大戦の場合、長い間、外部から評価されることも望んでいなかったし、マスコミに取り上げられなくても、自分たちの間で価値を確信してきました。今回、増田さんはこの価値を世間に広めるような役割を果たしている。増田さんは、世間に知られなくても構わないというスタンスについてはどう考えますか。
増田 学生時代はそうでしたね。でも今は部員数が減少して存続の危機に立っているので、まず高校生や浪人生への周知、名前を知るきっかけになってくれればいいなと思っています。30年前の内容なので、現代の感覚からすれば許されないことも書いてありますが、まずは存在を知ってもらうことが大事。こんな柔道があって、白帯からでも強くなれるんだよと。
松原 今年東大を卒業した廣澤君という部員がいるんですけど、彼は白帯で入ってきたんですが、先日の卒業試合の折りに、アップで柏崎克彦先生が得意とされた「振り子巴投げ」の打ち込みをやっていました。力が抜けた素晴らしい出来で、柏崎先生が“廣澤は日本で2、3番目に振り子巴投げが上手い”と真顔でおっしゃっていました。足が一回交差する特殊な技なので、柔道の常識が身についていると却って直感が邪魔をしてやりにくい技なのですね。廣澤君が巧みに足を交差させるのは、白帯から入ったからではないないかとのことでした。白帯は柔道の常識にはとらわれない面もあり、それが個性になる可能性もある。
増田 興味深い話ですね。
松原 逆に、高校時代に厳しい柔道部に所属していた生徒ほど大学の柔道部には入らない傾向があります。東大では、高校までで半端に強豪だった選手はほとんどがアメフト部に行ってしまいます。
増田 高校時代に厳しいと、大学まで続けない傾向はあるようですね。
松原 もうあのキツさには耐えられない、となってしまう。いじめや体罰、ののしりによる指導は、柔道への素朴な愛着やあこがれをすり切れさせてしまうのです。増田さんの場合、物語を読むかぎり2年目以降は自分が強くなったという実感があって悲壮感が薄れるのですが、冒頭から半分までを読んだ柔道経験者は、こんなつらい稽古を再開するなら、大学に入っても柔道を続けたくないと思うんじゃないですか。
増田 ただ、冒頭の半分は本の中に書いてあるように一年生せは僕だけがすべての乱取りに意識的に参加していたんです。だから僕だけがつらかった。七大学では受験勉強での体力の衰えを勘案して、入学後しばらくは自分で調整練習をすればいいことになっていますから新入生には安心してほしいです。あと、大学で柔道をやるか否かは、入学前の中学や高校時代の指導によるところが大きい。作品の中にも意図せず出てきている、北大の岩井眞監督の指導法もひとつの問いかけになっていると思います。指導者が一方的にやらせるのではなく、自分の頭で考え自分で責任をとりながらやっていくことが、柔道界だけではなく、柔道界だけではなく、これからの日本のスポーツ界の課題だと思います。
1989年の七帝戦開会式。最前列手前が北大4年生で副主将の増田俊也。その向こう側に立つのが『七帝柔道記』の準主役ともいえる滝澤宏昌主将。
松原 学生を目先の試合で勝たせようとするのならば、モノを考えさせない指導で効果は出ます。“お前はこの技だけやっておけ”という感じで、何故なのか考えさせることなくひたすらやらせる。確かに強くはなるけど、このやり方は自分ではものを考えさせなくもする。一方、岩井監督のやり方は4年かけて強くなるような自主性を重んじるやり方です。一生をかけて見てみると、後になって自分で思考する大切さを知る、そういう教え方です。
増田 旧帝大は昔も今も、どの学校もこれに近いと思います。社会に出てからの仕事での伸びしろまで考えて柔道を通した教育をしている。引退して道衣を脱いでからの生活も七帝柔道だという認識です。だから、みんな社会に出てからさまざまな分野の仕事で活躍をしています。
松原 私個人のことを言うと、部長に就任して以来の7年間、部員が4年間に考えたことを「柔道部卒論」と称して学生に発表してもらい、ビデオに収めているんです。誰もが4年間、頭を使い試行錯誤しているから、それぞれの視点が表れていて面白い。最近では、自分が発見した技術を後輩に伝えたいという思いも加わっています。学校によってやり方は違うでしょうが、先輩の教えを伝える方法はそれぞれに持っているはずですよね。
増田 あの形態の大会で競い合っていると、必然というか自然とそういうものができていくんじゃないですかね。
松原 ちなみに増田さん必殺の脇固めは、後輩たちに伝わっているのでしょうか。
増田 伝わっていると思いますよ(笑)。
松原 四月はそういった先輩たちの技を引き継ぐ新入生が柔道部に入ってくる季節ですが、今年は東大に2010年のインターハイ男子100㎏超級で準優勝した田上創君が入部しました。彼には後転倒立すらできる運動神経と、巻き込まない技術があります。それでいて勉強をしたいという一心で、柔道の強豪校からは距離を取り、一人で柔道を続けてきました。戸山高校時代は、たった1人の部員としてインターハイで戦った。そして学問へのつきない思いから東大に受かり、また柔道を本格的に始めることになったんです。
増田 集団と個の意味を考えるときに、彼の存在は日本のスポーツ界全体で大変な注目を集めると思いますよ。しかも最難関の東大の学生ですからね。
松原 柔道をやっている奴は勉強なんかやめろと公然と言われる中、さらには指導者の言うことは神の言葉と一緒とばかりに押しつけられる雰囲気の中で、彼は家族を支えに戦ってきたんです。私もインターハイを見に行きましたが、異様な雰囲気なんですよ。普通は同じ高校の仲間の声援が、どちらの選手が大きいか競う状態になるのですが、シーンとしていてお母さんの声援しか会場には響かない。彼は、師範の言葉を鵜呑みにするような指導がなされている学校からすれば、いてはいけない存在なのでしょう。出稽古先では素晴らしい指導者に恵まれて来たのですが、それは個人として指導を受けるという、集団主義の部活ではありえないやり方です。今、柔道界の反知性主義が社会的に問題なってきているのですが、学問に憧れたり個で行動できる田上君が東大に合格したことは、柔道界の集団主義に一石を投じています。
増田 それは素晴らしいことだと思いますし、七帝柔道のなかでどう進化するか、本当に楽しみですね。
松原 ただ我々としては、彼は基本的に集団の中で生活することに慣れていないので、気を配らなければいけませんね。今の東大はみな明るいので、安心はしていますが。彼らしさが発揮されれば、きっと七大学の宝になると思いますよ。
増田 いや七大学どころか、日本スポーツ界の宝になりますよ。東大理Ⅱの現役学生がプロのような生活をしている強豪選手と戦って勝ってしまう場面が見られるかもしれない。ワクワクしますね。あのフィジカルで七帝柔道のカメ取り技術を身につけたら、手が着けられなくなる。
松原 この2年、浪人中に出た試合では、高校時代とは違って、相手が正面から立ち技に付き合ってくれず勝てなかったんです。もしこれでカメ取りを覚え、相手が立ち技で勝負せざるをえなくなると、さらに彼の良さが出るはず。そういえばセンター入試の1カ月前に試合に駆り出されて、彼は○大のレギュラーを投げているんですよ。
増田 えっ!?
松原 見ていて呆れました。彼に「今日は良かったね」と声をかけると「これから駿台に行ってきます」と飄然と予備校へ向かっていったんです。
増田 受験勉強中だと、それこそ絶頂期の3、4割の力しかないんじゃないですか。
松原 「そうとう体力が落ちている」と本人も言っていました。
増田 まず七帝柔道界を驚かせ、日本柔道界を驚かせ、そして世界を驚かせる。しつこいようですが、日本のスポーツ界のあり方や考え方を全部ひっくり返してしまうような逸材だと思います。
松原 強くなることは大事ですけど、謙虚な好青年のまま成長してくれることが大切ですね。強くなることは師範に指導をお任せして、私たちは勉学や人間的な部分のアドバイスをしていきたいです。
逸材といえば『七帝柔道記』の中に出てくる増田さんと同期で、三浪で入学した1歳年上の沢田征次君が印象的なのですが、その後どうなってしまうのでしょうか?
増田 彼のモデルになった人物は僕の憧れの男だったんです。高校時代からの強豪選手で強くて男らしくて……。でも結局柔道部だけではなく大学も辞めてしまい、別の世界に行ってしまいました。
松原 それを作品中は、飲み屋で働いているという設定で匂わせているわけですか。
増田 そうですね。
松原 沢田君の中で当時、七帝柔道を続けられない理由や、感じ方があったんだと思われますか。
増田 あったと思いますよ。ある編集者に「増田さんはこの物語の中で沢田さんだけをコントロールできていない。でも、だからこそこの作品が生き生きと見える」って言われたんです。書き手というのはある意味、神じゃないですか。だけど沢田だけはコントロールできなかった。当時の僕は、沢田にとって物足りなかったんだと思います。僕は大学に入って1年間で青年になっていったわけですけど、彼は入学したときすでにさまざまな物を内に抱えた青年だったと思うんです。
松原 なるほど。東大にも同じタイプではないけれど、仲間意識に関してニヒルな部員はいました。全国中学大会で上位になった経験のある学生で、彼はどこか大学でもっと強くなること自体を見切っているところがあって、それよりも大学で勉強したり、文化サークルに入るといったことに関心があったようなんです。けれどもなんとか四年間、柔道部に付き合ってくれました。ただ、仲間に対する当たり方がきつかった。沢田君と似た口調で、試合中に後ろから仲間を罵ったりする。それは全中のトップという凄い世界を見て、犠牲にしたことがあったからかもしれません。七大って、たまにそういうタイプが出てくるんでしょうか。
増田 僕が卒業した後、インターハイで団体2位になった強豪私立高校の主将が2浪で入ってきたり、女子では皇后杯(体重無差別で日本女子柔道日本一を決める個人戦。男子の全日本選手権にあたる)に大学1年で出場しちゃうような重量級の逸材が入ってきたことがありました。ときどきそういう怪物が入ってくるんですけど、上手くいかないパターンも結構あるようです。
松原 なるほど、七大学の仲間意識に滑りこめない学生もいるわけですね。でもその学生が刺激を与えてくれたおかげで、東大は優勝まであと一歩というところまで行けたのですが。
ここで話は変わりますが、七帝柔道は、果たして高専柔道と完全に繋がっているのかどうかという問題についてお聞きします。形式的には昭和27年に七帝柔道が始まった当初は、昭和19年以降開催していなかった全国高専柔道大会を継ぐといった感じではなかったようです。それが次第に、高専柔道ルールに近づいて行った。
というのも私の理解だと、旧七帝大は、高専柔道の中の“弱者が強い者がいても平等に戦えるルール”という部分が最も純粋に当てはまるからです。“弱者重視”は高専柔道の専売特許のように言われますが、当初の帝大中心から次第に参加校が増えて、木村政彦までが参戦するほど巨大化した昭和期の高専柔道は、いくら弱者有利のルールであっても、相手に木村先生がいたわけですから七大生たちは絶望的な気分になっていたと思います。
増田 例えば現在の七帝戦がオープン化されて国士館や天理の一線級があのルールで練習し始めたら、七大生たちは気持ち的につらいでしょうね。
松原 たぶん『七帝柔道記』の中に書かれているような厳しい練習には耐えられないでしょう。
増田 モチベーションが保てない。
松原 ええ、どうやっても越えられない壁というのはある。現在の七帝が高専柔道と一番違うのは、層の薄さゆえ、学業にも邁進する旧制の七帝大ゆえに、皆平等と感じて頑張れる点じゃないかと思います。
増田 優勝へのモチベーションを保つのは大事なことですからね。現役時代、医学部の東医体(東日本医科学生総合体育大会)について批判したことがあるんです。医学部だけ集まりやがって、と。すると、ある教授に「お前らだって同じだろ」って言われたんです。七大学だけで集まっているんだから一緒だろって。当時はよくわからなかったんですけど、今思えばそうだなって。学生のモチベーションを保つため、4年間という期限を鑑みれば非常に優れた形態なんだと改めて思います。
松原 では最後の質問なんですけど、東大ではかつて“亀ばかりの柔道でいいのか?”という論争があり、一時期七大戦から脱退していました。私はその時期柔道部にかかわっていませんでしたが、私が部長になってからの7年間で、ようやく七帝の寝技のレベルに追い付けたと感じています。もちろん師範である柏崎先生のご指導や学生自身が考え切磋琢磨したことでここまで来られたのですが、正直、脱退していた時期に失ったものはそれほど大きかった。取り役経験者が揃った年は上位に食い込めたのですが、白帯の育成法が分からなかったのです。あの時期、東大が七大戦に参加しなかったことを増田さんはどのように見ていましたか?
増田 七大学あってこその大会なのに、六大学になってしまったときはがっかりしました。皆ライバルでしたし、どこが欠けても寂しかったはずです。
松原 東大脱退のきっかけになったのは本の中にも出てくる京大のタックルガメです。タックルガメは、タックルをしていきなりカメになり相手のズボンの裾を掴むというもので、これはさすがに柔道じゃないと東大は脱退してしまった。増田さんはこのタックルガメについて、どう考えますか?
増田 『七帝柔道記』のなかにも先輩から聞くエピソードとして出てきますが、僕が入学する前年に、京大のある選手が当時七帝ナンバーワンといわれた九大の田中和彦選手に対してタックルガメを仕掛けたそうです。この田中選手は卒業後は柔道で強豪実業団に入ることになる超弩級です。試合中は京大陣営も九大陣営も罵声が飛び交い大変な試合になったそうです。たまたま聞いた話ですが、最近その2人が30年ぶりに再会したようですが、会って話すことで2人のわだかまりは消えたようです。逆に言えば30年も引きずってしまうような因果がタックルガメにはあったわけです。結局、僕の時代は前年に紛糾したので、審判会議で禁止されたと思います。
松原 引き込むには帯より上を必ず二本の手で持たなくてはいけないというルールに改正されたのです。タックルガメは一発で反則負け。それでもタックルは禁止ではないので、タックルを潰されてカメになるという現象は起きる。これをどう考えるかで判定が紛糾します。改正がもっと早くなされていれば、先ほどの30年も引きずるわだかまりがなくて済んだかもしれませんが、グレーゾーンはどうしても残りますね。
増田 高専時代はあまりカメがなかったということですが、おそらくそれは今の6分ルールと違って、13人が10分、副将が20分、大将が30分という時間の長さにあったと思うんです。30分カメをやっていたら絶対に取られてしまいますからね。ですから最近、僕は同級生と戻してもいいんじゃないかって話しているんです。七帝戦を今の6月から8月の夏休みにスライドして、3日間かけて10分、20分、30分のルールで、最後まで一生懸命戦うようにする。6分だとちょっと不完全燃焼で終わっている学生もいるような気がするんです。
松原 なるほど。でも3日間かけてやるのは日程的に難しいでしょうね。大学の先生が運動会に寛容ではなくなりましたから。私などは「試合当日だけは朝から授業を休ませてください。あとからレポートを書かせますから」とお願いの手紙を書きますが、教員からは「駄目だ」と言われますからね。今それぐらい大学は世知辛くなっているんですよ。試合は6月になり、その時期にも最近ではロースクールの試験があったりします。
増田 なるほど、少し寂しいですね。
松原 そういえば『七帝柔道記』の中で、平均体重70kgぐらいしかない京都大学が全日本優勝大会でベスト16に入ったという記述がありましたが、私の印象だと中井祐樹さんのような特別な存在は別にして、普通、全国大会に進むには立ち技が元々できてさらに寝技を身につけた選手のはず。組み手がうまくないと軽量級が重量級に大綱するのは困難です。しかし、京大の選手の半分は白帯から始めた人だという。そういう選手たちが引き込みも禁止の国際ルールで勝つというのは想像できないんですよ。
増田 本の中でも書きましたが京大は当時年間15回もの合宿を行なっていました。よほど鍛えられていたんだと思います。
松原 七帝戦のルールであれば分かるんですけど、国際ルールでどうやって勝ったんでしょうか? わずか10~15秒の寝技の世界で決めないと無理なわけですから想像がつきません。
増田 僕も実際に試合を見たわけじゃないのでわかりません。ただ当時の新聞のスポーツ面ではトップで扱われていたし、それぐらい洗礼されたスピーディーな寝技だったようです。近隣の強豪大学に出稽古などしながら、いかに寝技を活かすのか、巴投げなどの研究をしていたと思います。
松原 私が聞いたところでは、京都産業大学の藤猪省太先生のところで組手を徹底的にやったということです。
増田 京大はさまざま工夫をし、壁を設けることなく強豪大学に勝てるようなそのレベルまで行こうとしたんですね。当時は東大が立ち技志向になっていたので、寝技でも行けるんだっていうのを見せたかったのではないでしょうか。
松原 こうなったらゴン格誌上で当時のレギュラー7人に話を訊いて、どんな試合をしたのか再現をする特集をやってもらうしかありません。ロマン溢れる話になると思います。
増田 そうですね。柔道競技人口も多い頃ですから大学柔道の全体のレベルも今より高いでしょうし、強豪校を向こうに平均体重70㎏で戦うのは範疇外。引き分けならわかるんですが、取ってますからね。
松原 カメ取りを15秒以内でやるのは難しいですから、一瞬の隙を狙って……。
増田 しかも相手は100㎏を超えている。これはぜひ特集してもらいたいです。
松原『七帝柔道記』を通して、次に繋がるお話ができました。今日は長い時間、ありがとうございました。
増田 こちらこそありがとうございました。
【「ゴング格闘技」2013年6月号掲載】
松原隆一郎
1956年、兵庫県神戸市生まれ。東京大学工学部都市工学科卒業。同大学院経済学研究科博士課程修了。現在、同大学院総合文化研究科教授。専攻は社会経済学、相関社会科学。嘉納治五郎が創設した灘中学・高校の柔道部出身。33歳で大道塾に入門し、現在は国際空手道連盟大道塾四段。同塾ビジネスマンクラス師範代。著作は『格闘技としての同時代論争』『思考する格闘技』『武道を生きる』『ケインズとハイエク—貨幣と市場への問い』など多数。